「花祭り」の起源(1/2ページ)
龍谷大文学部教授 中西直樹氏
日本で釈尊の誕生を祝う行事の最初は、606(推古天皇14)年4月8日に元興寺で営まれた斎会であったとされる。840(承和7)年には法相宗の僧静安により、清涼殿で灌仏会が修され、以後宮中で恒例行事となった。
しかし、灌仏会が「花祭り」として一般に定着したのは、明治期になってからのことである。その歴史をひもといてみよう。
法会としての灌仏会ではなく、仏教行事として最初に「釈尊降誕会」を行ったのは、東京諸学校の仏教青年会であろう。
明治20年代初頭は、宗派をこえた「通仏教」的結束が高まり、仏教青年会が各地で組織された。なかでもその代表格が、第一高等中学校・帝国大学(現東京大学)の「徳風会」、慶應義塾の「三田仏教会」、東京専門学校(現早稲田大学)の「教友会」であった。
明治25年1月、この3校の仏教青年会に、哲学館(現東洋大学)、法学館(現中央大学)の学生らも加わって、駒込真浄寺に集まり連合会を開いた。共同での事業展開について協議し、4月に釈尊降誕会を執行することと、夏期講習会を開催することを決めた。
同年4月8日の執行に先立って、大内青巒に釈尊の伝記を略述したパンフレット『宇宙之光』の撰述を依頼し、当日参列者に配布した。ちなみに、この『宇宙之光』は、現在、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧することができる。
当日の午前中は徳風会が担当し、真浄寺で講演会を開き、寺田福寿、小栗栖香頂が講演した。午後は哲学館学生の担当で、神田錦町斯文学会講堂において盛大な降誕会が執行された。講堂の正面に簡易な花御堂を設営して誕生仏を安置し、大内青巒や島地黙雷らの仏徳讃嘆の演説が行われた。夜は三田仏教会が担当し、引き続き法話・演説があった後、余興に薩摩琵琶と一弦琴の演奏があった。数百名の入場者があり、やむなく入場を謝絶するほどの盛況であったという。
東京諸学校の連合による降誕会は、その後も恒例行事となった。さらに明治27年1月には、各学校の仏教青年会に所属する学生60~70名が集まって東京諸学校仏教連合会を開き、4月8日の釈尊降誕会を期して「日本仏教青年会」を結成した。
その趣意書には「無我」を標榜する仏教が、宗派の枠に固執している姿勢を批判し、超宗派的組織として活動することが宣言されていた。また、次のような規則を定めた。
第一条 本会は日本仏教青年会と称し本部を東京に定めて支部を便宜の地に置く。
第二条 本会は青年学生にして仏教を信奉し且つ其弘通を謀るを以て目的とす
第三条 前条の目的を達する為め左の事項を行ふ
一、毎年釈尊降誕会を執行すること
二、毎年便宜の地に於て夏期講習会を開くこと
三、定期若くは臨時説教講義及演説会を開くこと
四、定期或は臨時有益なる出版物を発行することあるべし(以下略)
夏期講習会とともに、釈尊降誕会を主要な行事と位置づけたのである。日本仏教青年会は、後に「大日本仏教青年会」と改められ、昭和6年の全日本仏教青年会連盟結成の原動力となった。初期に活躍したメンバーには、後に衆議院議員・文部大臣となった安藤正純(哲学館)、清沢満之らと真宗大谷派改革運動を推進した月見覚了(帝国大学)、衆議院議員となり日中友好にも大きな足跡を残した柏原文太郎(東京専門学校)らがいた。
「花祭り」という名のもとに催されたのは、明治34年のベルリンのフィヤ・ヤーレス・ツァイテン・ホテル(四季ホテル)での釈尊降誕会が最初であろう。