テーラワーダ仏教と日本 ― 近代日本の宗教≪11≫(1/2ページ)
日本テーラワーダ仏教協会編集局長 佐藤哲朗氏
このほど、拙著『大アジア思想活劇―仏教が結んだ、もうひとつの近代史』(2008年、サンガ)を電子書籍化しました。同書は明治維新に伴う廃仏毀釈で大きな打撃を受けた仏教界が復興を模索する過程で、それまで「小乗仏教」と観念的に軽侮してきた南伝上座仏教(テーラワーダ仏教)を奉じるスリランカの仏教復興運動と邂逅した歴史の細い糸をたどったものです。電書版の編集過程で、改めて近代史における仏教国際交流の意義について考えさせられました。以下、いくつかのキーワードに沿って論じたいと思います。
拙著では、二人の海外仏教者に焦点を当てました。一人はアメリカ出身のヘンリー・スティール・オルコット(1832~1907)、もう一人はスリランカ出身のアナガーリカ・ダルマパーラ(1864~1933)です。前者は神智学協会の創始者で、南アジアに渡ってスリランカ仏教の復興及び近代化を指導しました。後者はそのオルコットに見いだされた仏教活動家です。
明治20年代初頭、白人の仏教指導者であるオルコットを日本に招聘する運動が京都仏教徒グループで盛り上がりました。仏教が欧米のキリスト教に劣らぬ宗教であることを証明するために。明治22(1889)年に実現したオルコット来日は一時的な仏教ブームを巻き起こします。
随行のダルマパーラは高楠順次郎(1866~1945)らと友情を結び、生涯で4回来日して仏教徒の連帯と反植民地主義を訴え続けました。「瀕死」の日本仏教に新たな活力を与えたのは、アメリカ人オルコットとその従者たるアジアの仏教者であり、彼らを触媒として南北に離散した仏教世界は一つに結びつけられたのです。
それから50有余年ののち、第2次世界大戦で米国を盟主とする連合国に大敗した日本はアメリカの下流域国家として国際秩序に組み込まれ、米国は物心両面で権威の源泉となりました。
近年の日本では、テーラワーダ仏教圏の修道体系がアメリカ経由の「マインドフルネス瞑想」として権威づけられ広く受容されています。これは明治22年、京都の知恩院でパーリ語の三帰依五戒文を唱えて仏教界に衝撃を与えたオルコット来日から、仏教史の大きな流れでつながっているように思えます。
戦後の1950年代、ミャンマーで瞑想の大家として名高いマハーシ長老(1904~82)のもとに日本曹洞宗の青年僧侶たちが参じ、ヴィパッサナー瞑想を学びました。しかし、彼らが日本でその教えを紹介することはありませんでした。当時、日本の仏教者はテーラワーダ仏教を「戒律仏教」と見なす認知バイアスにとらわれており、瞑想実践への関心は皆無に等しかったのです。
日本でいわゆるヴィパッサナー瞑想(観の実践)が広まったのは、主に1990年代です。指導者はスリランカやミャンマー出身の僧侶、あるいは当該国で修行を積んだ在家者でした。それが21世紀になってから、アメリカのマインドフルネス瞑想ブームにのって一般化したのです。
前述のように、戦後日本はアメリカの下流域国家であり、スピリチュアルな権威もまた米国のお墨付きがものを言います。その米国仏教には、1893年のシカゴ宗教大会以来、本格的に進出した日本の禅仏教関係者も大きな影響を与えました。
なお、マインドフルネスは仏教用語「念(サティ)」の英訳ですが、このマインドフルネス及びアウェアネスからの重訳語である「気づき」が、伝統的な「念」解釈にも影響を与えています。従来、八正道の正念は「正しい記憶」「正しい思念」など、具体的な実践と結びつき難い単語に訳されていました。テーラワーダ仏教のサティ概念が(英語経由で)移入されたことで、仏道実践の要諦たる「正念」の実践が、「気づき」なる日常語とともに一気に普及したのです。
ダルマパーラは全世界の仏教徒にインド・ブッダガヤ大菩提寺の奪還闘争(この運動は日本からインドに帰化した佐々井秀嶺師に継承され、一定の成果をあげた)を呼びかけた汎仏教主義者であるとともに、仏教徒が多数派をしめるシンハラ民族に依拠したシンハラ仏教ナショナリズムの祖でもあります。