涅槃会に寄せて 長谷川等伯筆涅槃図(2/2ページ)
曹洞宗龍昌寺住職 竹林史博氏
法華経の真精神からすれば、沙羅双樹の林で入涅槃された釈尊は、肉身の迹門の釈尊ではなく、本門の久遠実成の釈尊でなければならない。したがって宝床の瑠璃地表現は、その上に横臥される釈尊が法華浄土に在す久遠実成の仏であることを示す最も端的な表現であった、ということになる。本法寺本の裱背墨書銘に、「南無久遠実成非滅現滅釈迦牟尼如来」とあることが、何よりも雄弁にそのことを物語っていよう。「非滅現滅」の一句は、七尾市の長谷川家菩提寺長寿寺本堂の日蓮聖人一代記絵図の「聖人ご入滅」の場面に「非滅現滅」の説明が付されているのを見て、日蓮宗ではよく知られた表現であることを知った。
こうしてみると、等伯こだわりの宝床の瑠璃地表現は、この世の出来事である沙羅双樹下の釈尊入滅の場面を、久遠実成の法華浄土へと一大転回させる大切な舞台装置だったことが分かる。だから法華信者の等伯としては、どうしてもはずせない箇所だったのである。
数年前発行の等伯涅槃図(妙成寺本)の絵解き解説書に、画面左下の両手を前に差し出す人物を「等伯の自画像」としてあった。そういえば直木賞の安部龍太郎著『等伯』(日経新聞出版社・2012年)にも、これは本法寺本の同じ位置の人物を、等伯の自画像としてストーリーが展開していた。いずれも話としては興味深いが、本当だろうか?
一般に等伯作品といえば、構図も彩色も一切が一品もののオリジナル作品と思われがちだが、涅槃図製作には粉本(手本の原画)がある。妙成寺本の粉本は養祖父の無分作の涅槃図、だからこの2幅を比べれば、自画像かどうかは直ちに判明する。
幸いにも去年10月、七尾市の「山の寺の日」に、等伯と無分の直筆2幅を同時公開する講演会があり、講師に呼ばれた。会場で皆さんと一緒に拝観したのだが、無分作品にも同じ人物が描かれており、等伯はそれを忠実に写し取っただけと分かった。自画像ではなかったのである。
では、この謎の人物は誰か? これは無分作品からは分からない。そこで筆者は数年前に発見した無分作の粉本と思われる鎌倉時代の涅槃図写真を持参、一同に披露した。その古画ではこの謎の人物が差し出す両手に御飯を山盛りにした鉢が描かれている。つまり、この人物はキノコ料理を供養した「捧飯の純陀」であったのだ。
あろうことか無分爺さんは、差し出した両手までは描き写したのだが、この大切な捧飯の鉢を描き忘れてしまったのだ。それをそのまま等伯が写し取ったため、四百数十年後の今日、とんだ誤解を引き起こした――というのがことの顛末である。分かってみれば他愛もないことだが、絵解きの話題の一つくらいにはなりそうな話である。
現在、この古画は京都の個人所蔵である。『等伯画説』に、能阿弥の鶴図について「この鶴を(京都で)等伯祖父は被見たりと」とあるくらいだから、無分は幾度も京都間を往来し、涅槃図の古画を目にする機会があったものと思われる。当時は七尾が繁栄を極めた時代であった。
また等伯苦心の宝床表現と同じ構図の奈良型涅槃図も、少数派ながら全国各地に残されている。涅槃会で涅槃図を拝観することがあれば、一つこの宝床に注目してみるのも一興であろう。もしうまく見つかれば、拝観の楽しみが倍増すること請け合いである。