満洲事変前夜の『中外日報』と反宗教運動 ― 近代日本の宗教≪1≫(2/2ページ)
龍谷大非常勤講師 近藤俊太郎氏
準備会のメンバーは、機関誌・論集の刊行だけでなく、講演会、ピクニックの開催やビラ撒きなどにも積極的であった。ただ、これらの活動、特に国際反戦デーでのビラ撒きが官憲を刺激したようだ。準備会は8月13日に本部の事務所で同志5名の検挙、24日にアジト急襲と5名の検挙、9月2日に不審尋問で機関誌の原稿押収といった弾圧にあった。
マルクス主義者の宗教批判に対して、宗教界からは種々の興味深い応答があった。そのうち、仏教界の応答のいくつかを見よう。
まず、宗教批判に共感的態度を示したのが、三浦参玄洞や妹尾義郎らであった。彼らは、恐慌のなかで経済的・社会的優位にあった寺院や教団の現状を批判的に捉えており、他方で、仏教の本来性には教団の現状や資本主義を批判するだけの根拠があるとも考えていた。つまり彼らは、マルクス主義の問題提起を引き受け、仏教の自己変革を目指したのである。
仏教界では反宗教運動に対抗する組織がいくつも結成された。たとえば、田中舎身や武田豊四郎らの大乗会が組織した反宗教思想折伏連盟もその一つである。この組織には、当時の著名な仏教徒、思想家、政治家が名を連ねた。反宗教思想折伏連盟は、ソビエトを祖国視するマルクス主義者による亡国的政治革命に対抗する愛国的運動を自称し、既成宗教の腐敗を克服して宗教的信念により祖国日本に貢献しようとした。
ほかにも多くの仏教徒が反宗教運動に反論した。反論の中心は、マルクス主義者の宗教理解が平板かつ陳腐であること、仏教が社会的機能では把握できない内面性・精神性を有すること、であった。そこには原始宗教やキリスト教、宗教一般に解消できない仏教の独自性についての主張があった。
こうした反論に対し、反宗教運動も徹底抗戦で応じた。支配階級に奉仕する宗教のアヘン性がいよいよ明確化したと言わんばかりであった。さらに反宗教運動は、宗教批判に共感的態度を示した宗教者さえも、徹底的に論難の対象とした。たとえ宗教批判に理解を示したとしても宗教を捨てないかぎり敵対勢力と見たのである。こうした徹底抗戦の態度は、反宗教運動を社会的孤立へと向かわせた。
1931年9月、準備会は日本戦闘的無神論者同盟と改称してその結成大会を開いた。このとき、論争の過熱ぶりは、ちょうどその頂点を迎えていた。
しかし、同月18日に状況は一変した。満洲事変が勃発したのである。それまで日本社会を騒がしていた反宗教運動は新聞・雑誌から消え、代わって、民族的公憤や祖国愛といった精神的雰囲気が日本社会を覆った。仏教界の戦時体制への再編も一挙に進められた。
まるで行方不明になったかのような反宗教運動であったが、それでも非合法的活動を1934年5月まで続けた。反宗教運動の嵐は、こうして忽然と姿を消した。
仏教界にとって反宗教運動はさしたる脅威とは映じなかったようである。論争が沸点を迎えたタイミングで突如消失したこともあるが、仏教界からの応答は断片的なものにとどまっている。仏教界とマルクス主義がそれぞれ置かれた社会的位置からすれば、仏教界はまともに応答する必要を感じなかったのかもしれない。
とはいえ、満洲事変前夜のマルクス主義と仏教をめぐる一連の出来事は、いまなお宗教界に鋭い問いを突きつけているのではないだろうか。
資本主義の抑圧性が状況の全体を覆ったとき、宗教が果たすべき役割とは一体何か――、と。