伝統仏教寺院の世代交代 ― 2030年のシナリオから見えるもの(1/2ページ)
「未来の住職塾」塾長 松本紹圭氏
「寺報もあの頃はまだ紙で発行していたのか」
2030年1月。私は昨年末に葬儀を済ませた先代住職の遺品から、ちょうど15年前、15年発行の寺報を見つけた。今は本や新聞はもちろん、寺報でさえ電子ペーパー上に文字・動画・音声のデータが流れてくる時代だ。久しぶりに見る紙メディアに懐かしさを覚え、寺報をめくった。
檀家……! 時代を感じる言葉だ。15年ほど前から、かつての「檀家制度」が急速に崩れ始めた。その原因は経済の停滞、少子高齢化、家族の紐帯の弱まりなどいくつかある。
高度経済成長期の一億総中流時代には守ることが当然とされた先祖代々の墓は、「永代供養」という名の下にどんどん放棄されていった。超高齢社会の今、高齢者は人口の3割を超え、現役世代1・7人で1人の高齢者を支えている。
日本の国際競争力は低下し、米国と肩を並べる大国となった中国は言うに及ばず、インドにも8年前にGDPで追い抜かれた。「豊かな国」だった日本は、今やアジアの小国のひとつに過ぎない。
国内の経済格差も拡大するばかりで、中流以下の一般家庭にはもはや先祖を顧みる余裕などない。単身世帯が4割まで増えた今、先祖どころか家族すら顧みられなくなっている。いまだ「檀家」として累代墓を守ることに熱心なのは、ほんの一握りの勝ち組クラスだけだ。
葬儀で僧侶が導師として読経することも本当に珍しくなった。亡くなると早々に火葬を済ませ、故人に関わりのある人が集まってホテルやレストランで小さなお別れ会を開くのが一般的。「家族葬」もとっくに死語となった。
とはいえ、僧侶の出番はゼロではない。宗教者として故人と生前から交流を持ち、終末から臨終に際して故人に寄り添い看取った僧侶は、故人を偲ぶ客人として遺族から招かれる。
たまに依頼があれば読経や法話をすることもあるが、基本的には一参列者。自動運転車のおかげで、食事の席での飲みニケーションも復活の兆しだ。僧侶の役目はかつての儀礼偏重から、宗教者としてのケアの領域へとシフトした。
そのことが強く感じられるのは、葬儀より法事かもしれない。地域コミュニティーを支えていた地縁・血縁の基盤が完全に崩壊し、先祖への畏敬の念はすっかり薄れ、かつて仏事の慣習を保った「親戚や近所の手前」「やらないと具合が悪い」などの理由も今は成り立たない。
法事は「やらねばならないもの」から、「やったほうがいいもの」へ、そして「やりたい人がやるもの」へと変わった。法事の実施率はここ15年で4分の1以下に激減。その一方で「やりたい人がやる」法事には、形式だけでなく意味と質が求められるようになった。
故人と遺族に寄り添う「生死の専門職」として研鑽を積んだ僧侶が勤める法事と一連のケアは、社会的に高い評価を得つつある。かつての月参りは、月に1度の在宅宗教ケアサービスにその名残を留めている。
寺報のページをめくると、一枚の写真が目に飛び込んできた。「境内清掃、収穫を終えた檀家の皆様と共に」との説明書きに、時の流れを感じる。この15年で農業はすっかり変わった。人工知能とバイオテクノロジーが目覚ましい発展を遂げ、農作業の大部分を無人ロボットが行うようになり、農業は今や理科系の技術専門職だ。
みかん畑では空中を飛び回る無数の無人ドローンが農薬の散布から収穫まで自動で行うし、レタスは完全無菌のバイオ工場で大量生産されている。お寺の境内清掃も、今は屋内・屋外のほとんどを清掃ロボットが担う。
かつて消滅可能性都市に指定された地域も住民がゼロになったわけではない。高速通信網の発達や無人配送ロボットによる物流革命により、ネットワーク環境さえあれば仕事の場所を選ばなくなった高学歴の若者が、自然を求めて都会から移住してくるケースもある。