百萬遍知恩寺資料調査の現場から ― 両本尊の成立に新事実(2/2ページ)
京都美術工芸大非常勤講師 近藤謙氏
釈迦像頭部は兵部の作であることが予想されるが、彼が定朝の系譜を引くと主張していることが注目される。その顔立ちが定朝風であることの理由として、似せることを意識して制作した可能性があろう。「定朝流」と自称することには意味があり、釈迦像の頭部は江戸時代における定朝風復古を目指した作品と位置づけることができる。
像内は頭部から底部まで、金泥でダラニが記された紺紙が貼り付けられている。
さて寺町旧境内地図とされるものでは阿弥陀堂が確認できない。現在地に移転後も長く阿弥陀堂は存在しなかった。現在の堂宇は、江戸後期の建立である。従って以前の本像の伝来は不明であり、関連史料も確認されていない。
安土桃山時代に知恩寺を訪れた宣教師ルイス・フロイスの報告には、寺町移転以前の段階で阿弥陀堂と阿弥陀像の存在を示唆する記述があり、何らかの形で阿弥陀像は存在していたらしい。ただし、それが現在複数存在する知恩寺ゆかりの阿弥陀像のどれに該当するかは不明である。
外見から観察される本像の作風は、中央が下がる髪の生え際や高く太い鼻筋、爪の長い指先など、中国・宋時代のスタイルを取り入れている。これは鎌倉・室町時代に流行する現象であるが、江戸時代にも同様の仏像は造像されており、制作年代の決定的な判断基準とはならない。
しかも江戸時代には鎌倉時代の仏像を意識した復古調の作品が数多く造られた。京都ではその傾向が強く、鎌倉か江戸か判断に困る作例も多い。
引き締まった顔立ち、目じりの切れ上がる鋭いまなざしは、鎌倉時代の特色を強く感じさせるが、袈裟の端が波打つように折り返しを見せるなど、異例な着付けが見られる。
これらの点を踏まえ阿弥陀像の制作年代に関しては、鎌倉か江戸かをめぐり研究者間で見解が分かれている。外見を観察するだけでは時代を判断できる決め手に欠けているためだ。
そこで後頭部のラホツの一部が取り外せる構造となっていることから、ファイバースコープによる像内調査が実施された。その結果、納入された巻子の存在が確認され、本年5月、苦心の末取り出しに成功した。確認された主な納入品は次のようなものである。
・巻子 数巻(現状では開巻できず)
・小印仏多数
・紙にくるまれた火葬骨の断片多数
・簪
ラホツの一部が取り外せる構造は数十年前まで伝わっていたらしく、最も新しい納入品は、洋紙にくるまれた人骨断片だった。
遺骨納入の目的は、仏像の胎内を聖なる空間と捉え、ここに納めることで故人の浄土往生を願ったと考えられる。鎌倉時代頃から、お堂や仏像に同様の事例が確認されることが参考となろう。
多くの場合、納入品は仏像の完成以前に納められ、密封されてしまう。本像の場合は、取り外せる部分に接着された形跡が認められなかった。これは完成後も納入品を追加することを意図した構造であると推測できる。
納入品に関しては現在分析中であるため仮定の話となるが、この像は継続して納骨などを行う、特別な目的のもとに造られた可能性が想定されよう。これは美術史の範疇を超える問題であるが、一種の「納骨堂」としての機能が存在したことを推測させるものである。胎内に貼られた紺紙金泥のダラニもこれと関連しよう。
像の大きさに比べて納入品がわずかである状況から察すると、庶民に至るまで分け隔てなく納骨が許されていたのかは疑問だ。納骨が許された人々は限定されていたのかもしれない。また広く一般の人々にも納骨がみとめられていたが、一定量が溜まると取り出して墓地に改葬するといった管理が行われていた可能性もあり得る。いずれにせよ、今後の分析により制作年代・制作経緯・作家などが判明することが期待される。
知恩寺の資料調査からはこの他にも新たな事実が確認されており、いずれ稿を改めて紹介したいと考えている。