百萬遍知恩寺資料調査の現場から ― 両本尊の成立に新事実(1/2ページ)
京都美術工芸大非常勤講師 近藤謙氏
知恩寺では現在、多数の文化財に関して資料調査が進められている。私は幸運にもその作業を担当させていただいており、今回はその現場から見えてきた事実の一端を報告させていただきたい。
調査には以前に京都国立博物館も関与されており、本年にも大規模な調査が実施された。その成果は本年度中に正式な報告がなされる予定である。ここでは知恩寺の本尊・釈迦堂の釈迦如来坐像と、阿弥陀堂の本尊・阿弥陀如来立像に関して明らかとなった事実を取り上げよう。
なお本稿は京都国立博物館上席研究員・浅見龍介氏の調査所見に基づき、私が調査に立ち会わせていただいた際の知見を加えたものとなる。
知恩寺はかつて賀茂社の神宮寺であったとされ、その本尊がこの釈迦像であったと伝えられる。創建地は現在、相国寺の境内となっている。1382年、相国寺建立に際して室町幕府より退去を命じられた知恩寺は、現在の元百万遍町へ移動した。さらに1585年、豊臣秀吉が寺町を整備すると荒神口北に再移転する。そして1661年、「寛文の大火」により伽藍を焼失。現在地に移って伽藍を再興、現在に至る。この間の焼失記録をまとめると次の通りとなる。
1467年 応仁の乱
1508年 幕府の内紛による戦闘
1536年 天文法華の乱
1566年 御霊大火
1585年 寺町荒神口北へ移転
1661年 寛文の大火 翌年、現在地へ移転
釈迦像に関しては、古い童歌に大火後、分解され牛車にて運ばれた情景が歌われている。仏像の構造から、実際の光景を踏まえたものだろう。
度重なる被災の記録からすると、創建時の本尊(平安時代後期?)がそのまま伝わっているとは考えにくい。釈迦像の大きさはいわゆる「丈六」で、内部が空洞であるとしても、緊急時に分解移動させることは困難である。
知恩寺は江戸時代以前の文化財が少なく、火災など被害の大きさを想像させるが、この惨禍は本尊にも及んだと考えるのが自然であろう。
釈迦像は頭部と首から下の胴部が分かれているなど、珍しい構造を示している。ここから古い部材と修復された部材が混在している状況が推測される。
顔立ちには平安後期の仏像を思わせるものがあるが、鼻孔が表されない点は不自然である。ここで一つの夢想が浮上してくるのだ。
釈迦像は創建時、あるいはそれ以降であっても寺町移転以前に造られた古い仏像が、修復を受けながらも部分的に受け継がれているのではないか、という疑問である。仏像は大きく破損しても守り伝えられる事例が多いためだ。私はこの点が長く気にかかっていた。
今回の資料調査では、この疑問に一定の手がかりが示された。膝部が取りはずされたところ、像内に「寛文四年」「修復釈迦如来」「定朝流大佛師/兵部」などの修理銘が確認されたのである。1664(寛文4)年は、現在地へ伽藍が移転してから2年後にあたる。
頭部は修復時に新造された可能性があり、像内は黒漆が塗られているが、これは寛文の修復によるものと想像される。漆の下にはノミ痕の粗い彫刻面が見え、確かなことは不明だが、江戸時代以前の作であることが推測された。
これにより、現在の釈迦像が少なくとも1664年以前に造られたもので、修復を受けて伝来していることが確認されたと言えよう。本来の制作年代に関しては今後の課題となるが、1585年の寺町移転以前に遡る可能性も考慮すべきであろう。
担当仏師は「兵部」。仏師は平安時代以来、特別な業績により高位の僧階を与えられていたが、江戸時代には無断で官職名を称する者が登場する。彼もその一人であろうか。
ところで兵部がその系譜にあると称している定朝は、平安時代後期を代表する仏師で和様彫刻の大成者として名高い。江戸時代に入ると、定朝風の仏像は鎌倉時代の作品と共に理想的な手本とされるようになった。