孤高の僧 青柳貫孝の生涯 ― 民族の違い超え人間の平等貫く(1/2ページ)
エッセイスト 寺尾紗穂氏
青柳貫孝(1894~1983)は第2次世界大戦以前のサイパンに南洋寺を開き、戦後は八丈島に渡り、サイパンからの引き揚げ者と共に香料栽培に携わった浄土宗僧侶である。大正期日本の社会事業を牽引した渡辺海旭を師とし、戦後はついに自らの寺を持ちえなかった孤高の僧は、僧侶の特権意識や驕りを憎み、人の平等を考え、共に汗を流すことを実践した人物だった。浄土宗の僧侶の中でもこれまであまり知られることのなかった青柳の人生を紹介したい。
青柳貫孝は新潟県上越市(旧高田市)の浄土宗善導寺住職、青柳達存の長男として生まれた。達存は善導寺住職となる前は北海道開拓に半生をかけた僧侶で、貫孝にも「今度はお前はどこか仏教のないところに行って仏教を広めて自分でお寺を建てるというような志を持」つよう言い残している。そうした運命を促すかのように達存は早く亡くなり、檀家らは貫孝の成人を待たずに善導寺の新住職をよそから迎えることを決めてしまう。貫孝ら遺族は寺を追い出される形となった。
寺を失った貫孝は渡辺海旭が住職をつとめていた東京の西光寺に寄宿し、芝中学から大正大に進む。このころ、華道や茶道、作法の免許を取得、中でも壷月遠州流の武家茶道を教えることは、貫孝の生涯にわたって続けられた。壷月遠州流は現在貫孝の孫弟子にあたる中村如栴によって引き継がれている。壷月とは渡辺海旭の号である。
西光寺の檀家にはアジアの革命家や大陸浪人と親交があり、資金援助を惜しまなかった新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻がいたため、貫孝もインド留学が実現する。ノーベル賞詩人タゴールが設立した大学、サンティニケタン大学(現タゴール国際大学)へ渡った貫孝はタゴールに自ら茶道を教えたとも伝えられている。その後セイロンやビルマやサイパンを視察し、各地で華道や茶道を伝えた貫孝は、とりわけサイパンの状況を見てここに寺を開く決意をする。当時のサイパンは南洋群島とよばれた現在のミクロネシア地域の一部であり、ドイツの第1次世界大戦敗戦後、日本が国際連盟の委任統治の形をとって実質的な支配を行い、日本語教育も進められていた。
いったん帰国し昭和4年に東京都文京区の潮泉寺の住職におさまるも、3年後にはサイパンに移住している。そうして「3尺も5尺もあるような大きなトカゲのいるジャングルを切り開いて」南洋庁から2万坪の土地を払い下げてもらって昭和7(1932)年に開いたのが南洋寺だった。
やがて貫孝は、サイパンにおいて女子教育がないがしろにされていることに疑問を感じる。当時のサイパン在住の日本人子弟は小学校卒業後、男子はサイパン実業学校に進むことができたが、女子教育は用意されていなかったため、教育を受けさせたいと思えば内地に戻るしかなかった。女学校設置を訴えた貫孝に、南洋庁は「サトウキビ農民の子弟に教育はいらない」という態度だった。当時サイパンに渡った日本人の多くは農民で、とりわけ沖縄や八丈島、日本内地の貧しい農村からの移民が多かった。それでも貫孝は女学校開設をあきらめず、とうとう昭和11年、「サイパン家政女学校」(後のサイパン高等女学校)の開校にこぎつける。現地の島民、チャモロとカロリニアンもまた公学校と呼ばれる初等教育以後は一部の島民男子が学んだ大工養成所など特殊校を除いて教育を受ける場がほとんどなく、日本人家庭の女中などになるケースが多かったが、貫孝は「技芸女学校」として島民女子のための教育の場を開設した。
日本人と島民は能力に差があることが前提とされ、教育を分けることが常識とされていた。ほんの一部の名家出身で優秀な島民男子がサイパン実業学校に進むケースも散見されたが、日本人より優秀な島民がいても「優等」表彰を受けることは許されなかった時代である。貫孝もまた、日本人と島民の教育の場を分けはしたが、娘を内地に教育にやる資力のない農民たちに思いを寄せ、男子のように教育を受けることのできない女子の立場に疑問を抱き、さらに、高等教育は不要と考えられていた島民にもさらなる教育の場を、と常に軽んじられてきた存在に目を向けていく姿勢は、仏教者として人間の平等と教育の可能性を信じていた貫孝の理念をよく表している。