人文学の死、震災と学問 ― 人文学とは何か本質的議論を(1/2ページ)
国際日本文化研究センター教授 磯前順一氏
この夏、お盆過ぎに東北地方を訪れた。仙台で、『黒い海の記憶』の著者である山形孝夫氏(宮城学院女子大学名誉教授)に会った。「死者を中心に据えた学問が今求められている」と、彼は何度も語った。「例えば能楽。死者が主役になって物語が展開する。その声を聞き取る役が僧侶なんです」。一方、現代の学問は生者が自分たちだけのために学び語っているのではないか。そこに理性のみに根ざした近代啓蒙主義の限界があるように思えるのだ。その意味で、東日本大震災は学問の転換点をなす出来事でもあった。理性というものが感情や無意識という土台に支えられた、不安定で局所的なものであるのかを知らしめた出来事であった。理性だけではない。私たちの生自体が頼り気のない脆弱なことを感じざるを得なくなったのである。
文科省が大学における人文学部の削減を示唆してから数カ月がたった。ほぼ同時にはトップ15大学にグローバル学部の設置をおこなう国際戦略も発表された。こうした動きの中で既存の人文学系の学部は国際競争に耐えられないという評価が下されたのである。震災以降、日本社会はナショナリズムの傾向が強まる一方だが、一見相容れないように見える国際化の動きこそがそうした排外主義の気分を促している。国際化の需要が高まるほど、そこから零れ落ちる人々は故郷を失われたものとして憧憬するためである。
周知のように、国際化の推進はグローバル資本主義と不即不離の関係にある。資本主義がグローバル化していく中で、国境を超えた競争を強いられる人々は不安にさらされる。社会福祉を切り捨てた新自由主義の政府や、解体されていく地域共同体ではもはやこうした個人の抱える不安に対処することができない。若い世代に圧倒的な人気を誇る漫画『進撃の巨人』やライト・ノベル『涼宮ハルヒ』シリーズは、そうした不安を端的に体現した作品である。セカイ系と呼ばれるこれらの作品は自分が見えない世界と戦っている、いや、戦うというよりも、見えない世界が自己の内部に侵入してくる恐怖が的確に描き出されている。
『進撃の巨人』が示すように、この世界は人間を食い尽くす謎の巨人たちで満ちており、彼らの侵入を防ぐ城壁もすでに破壊されている。そうした悲痛な恐怖感、それが今日の日本社会を生きる多くの人々の、偽らざる心象風景なのではないか。自己と世界の境界線の崩壊。正体不明な他者の侵略。自分が自分であることの実感が喪失される。拠りどころを失った人々は、天皇制やパワー・スポットなど、「大文字の他者」(ジャック・ラカン)へと自ら進んで同化されていく。明確なアイデンティティーの確立していない者にとっては、たとえそれが安直な既成の権威であり、他者を侵害するものであっても、自分を包摂してくれる存在であれば、喜んで身を委ねることになる。自分を取り巻く世界そのものが不分明である以上、少しでも自分を包み込んでくれる他者との一体化を望むのは当然の心情であろう。
そして、共同体の内部では調和が破られることをひたすら恐れ、たとえ眼前で不正がおこなわれても何事も起きていないように黙殺する。内部が上手くいきさえすれば、自分の属していない他の共同体で何が起ころうが関知しない。会議の場では自由な発言を促しておきながら、実際には異論を唱える発言が閉会後に注意されることも稀ではない。その結果、本会議では表面的には自発的な「全員合意」がなされたという体裁が保たれる。しかも事態を厄介にさせるのは、こうした自由な発言への制約が誰の意向によるものなのか、責任の主体が曖昧なことである。そのため意見を公表できなくなった者たちには黙認を続けるか、内部告発という形でしか自分の声を発する可能性は残されていない。学問の世界も教授会の討論、博士論文の審査など、理研のSTAP細胞騒動がその一端を示したごとく、日本の社会一般とさほど変わることはない。社会や共同体にはその成立当初から不正が隠蔽されていると考えるべきだろう。