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万人平等救済は不平等? ― 学生の宗教観、我が事の問題意識薄く(2/2ページ)

知恩院浄土宗学研究所研究員 中御門敬教氏

2015年10月9日

前記意見には、古来議論されてきた古くて新しい話題も多い。それはそれで議論が必要だが、今回は特に私が感じたこと1点を論じたい。「自分と他者」の問題である。青年の多くは「他人事」として善悪を論じている。「我が事」の問題意識が希薄なのである。

「おかげさま」の視点

この点と関係する、象徴的な事例を紹介したい。昨今議論されることも多い、学校教育の道徳である。文部科学省初等中等教育局による「『道徳の内容』の学年段階・学校段階の一覧表」には、1.主として自分自身に関すること、2.主として他の人とのかかわりに関すること、3.主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること、4.主として集団や社会とのかかわりに関すること、の4項目が出る。この一覧表からは、社会生活を送る上で、あくまで他人に迷惑をかけない、という基調が見え隠れする。自他を「別もの」のごとく扱っている。こうした断片化は“是か非か”の極論にもつながろう。その延長には、迷惑をかけたら(罪を犯せば)決まり(法律)で裁くという、直線的かつ短絡的な方向すら感じられる。約40年前に貞包論文〔注2〕に指摘されたように、我が国に伝統的な「おかげさま」という視点が欠如している。自分の中に他者を感じ、他者の中に自分を感じる、いわば仏教的な縁起の欠如が依然としてある。批判的なリポートの基調は、「自分は(恐らくは)普通の人。罪を犯した人(加害者)は悪人。悪人は許されるべきではなく、裁かれるべき」。万人救済を認めれば、道徳の崩壊をもたらすかのような論調である。そして救済主が「仏」であることを忘失している。とりもなおさず宗教上の善悪と、刑法上あるいは勧善懲悪的な善悪論とを、余りに同値している。その結果、「深心」御法語からうかがえる、念仏による万人救済性を過剰な救済、不平等だと指摘する〔注3〕。

仏教の立場からは、善とは穏やかさを与えるもの、悪とは後悔を生み出すもの。その意味では、我々すべてが善と悪を抱えている。浄土教の視座からは、そもそも大多数が凡夫、それも「罪悪生死の凡夫」である。究極的には、仏との関わりすら内包する、切り離せない自分と他者、“私とは私たち”。青年たちに責任は無いが、この自覚の欠如が、「他人事」として悪を論じる核にあるのではないか。戦後、公的な場所に宗教色が薄らいで久しい。それに基調を合わせるかのように、渇いたお作法(マナー)が謳歌する日本。こうしたことが遠因に思えてならない。なお「万人救済は不平等」だと訴える青年が多い中、次のような意見もあった。現代語訳を注意深く読むことで、かたやこうした意見も提出される。

隙間埋めるツール

「“私は絶対に犯人を許さない”と残虐な事件の度に耳にする。遺族の立場にたてば、私も加害者を許せない。しかし一方で、『そういう人を救っていく』、そんな教えが『元祖大師御法語』にはある。阿弥陀様という絶対的な存在の前では、人間の能力は問題ではない。救われるか否かは、本願を信じるか信じないかの問題である。罪深い凡夫でも、本願を信じれば救われるというのである。同時に罪を自覚し、反省することは絶対に必要だ。仏教では懺悔という。それには真実なる心が求められよう。死刑を求める遺族の気持ちは痛いほどわかる。しかし罪人の心底の懺悔、つまり深心にも眼を向ける必要があろう。『元祖大師御法語』を学びながら考えさせられた」

宗教関係者は、人々とつながる「ツール」を模索している。世間の人々は、教えとつながる「ツール」を模索している。現代の宗教事情はこうした模索状態にある。宗教離れとこの点は無関係に思えない。その隙間を埋める強力な一つの「ツール」が現代語訳である。“すぐれた現代語訳には、ある種の権威が宿る”と言えば、言い過ぎであろうか。


〈注〉1.『お言葉』の各章題名下の概要より抜粋(以下同)。

2.貞包哲朗氏が中外日報紙上に「禅と浄土と高校生」を投稿した(1975年6月28~29日付、7月1~3日付)。勤務先の佐賀県立佐賀東高校での「倫理・公民」の授業中に行った、高校生の仏教理解についての調査結果とその評価である。すでに40年前に、青少年の仏教への意識を調査された点で貴重な論文といえる。この記事を取りあげた早島鏡正氏は、『ゴータマ・ブッダ』(講談社学術文庫)において、「仏教が理解できない理由」として、①おかげさまの自覚のなさ(縁起の道理の欠如)②仏に守られているという自覚のなさ、の2点に要約する。

3.複数の人から、「昨今の被害者と加害者の法的問題に根があるのでは」と意見を頂いた。

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