万人平等救済は不平等? ― 学生の宗教観、我が事の問題意識薄く(1/2ページ)
知恩院浄土宗学研究所研究員 中御門敬教氏
2010年春、法然上人八百年大遠忌を記念する出版物として、知恩院浄土宗学研究所の編集委員会は、『法然上人のお言葉―元祖大師御法語―』(以下『お言葉』、総本山知恩院布教師会発行)を上梓した。近年、仏教界では宗典を現代語訳する試みが盛んである。浄土宗内でも機運高まり、宗祖法然上人(1133~1212)の御法語集『元祖大師御法語』(以下『御法語』)を現代語訳する運びとなったのである。『御法語』には、上人が生前に残したお言葉やお手紙が、前後篇各31章(御詠含む)にわたり収録されている。
私はここ数年、非常勤講師として佛教大学(京都市北区)において「法然の生涯と思想」を担当している。全学部1回生を対象とした、佛教大学の建学精神に関わる講義である。毎年、極寒の12月に私はリポート課題を出す。設題は「『お言葉』の中から、各自興味をもった御法語を一つ選び、自分の意見を入れて論述せよ」。この試みの特徴は以下のとおり。①唐突なアンケート類ではない点。基礎的な仏教観をある程度習得し、さらに浄土教への知見を深めた段階での設題。②語学的な壁を取り払った、現代語訳を教材に選んだ点。この2点である。
当初の意図は、学生による理解進度を計る点にあった。しかし受け取ったリポートを読むと、そこは驚きの世界。現代語訳を教材に使ったためか、具体的な意見が相次いだ。すぐさま私の関心は、青年の宗教観へと移った。まず私は、リポートを集計整理することに着手した。その数は2年分のA4リポート(裏面使用可)合計約300人分。しばらくすると、選択される御法語に偏りがある点に気づいた。以下の二つの御法語、前篇第十一「深心」(深心とは、「いかなる自分であろうとも、念仏すれば阿弥陀仏の本願の力で往生できる」という確信である〔注1〕)と、後篇第十「深心」(深心とは、自分が悪業・煩悩の具わった凡夫であると信じ、その自分でも本願の念仏により救われると深く信じることである)に選択の傾向が集中していた。直観的に、ここに青年の宗教観を探る糸口があるように感じた。
青年の宗教離れが叫ばれて久しい。しかし(伝統的な)宗教儀礼への無関心なのか、それとも宗教の教理そのものへの無関心なのか、その深層に迫る試みは寡聞の故か心当たりがない。そこで今回は、青年の宗教観の把握のために、選択数の多かった先の「深心」御法語の感想に焦点を当てる。
結論を先取りしよう。少なくとも教理そのものへの関心は、良くも悪くも高い。学生の意見を紹介することから開始する。
「自分が煩悩をもつ凡夫であると自覚して、阿弥陀仏の本願を信じるという点に、真摯に自分に向き合う姿勢が読み取れる」
「念仏だけで救われるなら、マジメな人からするとズルイ」
「念仏だけで救われる、これは苦しい修行を避けている。都合がいい」
「“罪の軽重を問題とせず”とあるが、一生懸命頑張った人と、人生を犯罪で終えた人が、同じく往生できるのは不公平。損した気分」
「深く信じて念仏しても、罪は消えないだろう。どんな罪も許されることになる。この『深心』という御法語には賛成しない」
「“心の善悪を顧みず、罪の軽重を問題としない”という。殺人の場合“南無阿弥陀仏”と称えるだけで許されてしまうのか」
「この御法語は無責任なアドヴァイス」
「罪人も希望をもって生きて欲しいという法然の願いを、この御法語に感じた」
「まずは自らの罪に目を向け、念仏することが大切」
「祈りという受動的な行為だけで、極楽往生できるとは安易。他力本願甚だしい」
「万人救済では人の善業が無意味になる。自業自得が否定されてしまう。現代的ではない」
「念仏だけで極楽に行けるならば、何の苦労もない」
「罪は罪。一生懸命生きている人こそ、仏は救済する」
「罪を犯した人は、亡くなってからも少しは償うべき」
「阿弥陀仏にただ救ってもらうのではなく、自分の無力さを心底思い知らなければならない。現代人が注意すべきこと」
「深く信じる心は大切。どんなに罪人でも往生できるのだから」
「信心という純粋な心こそが必要」
「悪人は救済されるべきではない。輪廻すべき。そうすれば信心的な善人が本当に報われるはず」
「念仏しても、しなくても救われるのが本当の救済」