メディアの動向に見る葬送文化 ― テレビの仏教番組が増加(2/2ページ)
愛知大国際問題研究所客員研究員 内藤理恵子氏
葬送に関連する放送傾向がさらに過激になったのは14年夏。7月10日放送の「あのニュースで得する人損する人2時間SP」(日テレ)の特集は「増加!お墓を勝手に撤去トラブル&今注目の墓じまいの実態」とし、「お墓まいりに全然行っていない」「お墓まいりはしばらく行かないね」など墓まいりに否定的な街の人の意見ばかりが連続して映し出された。続いて画面に表示されたのは「究極の選択墓じまい」の文字で、「墓じまいの専門業者」が墓石の撤去から海洋散骨まで行う一連の映像が特集のまとめであった。
「墓じまい」という言葉(もともとは事情があって仕方なくする際に行うサービスの名目であったもので積極的に墓を取り壊す意ではないが、のちに意味がすたれた)の連発にも違和感を持ったが、その後、他局でも「墓じまい」の特集が組まれ(8月14日放送TBS「ひるおび!」における墓じまい特集など)「墓じまい」という言葉の独り歩きが続いた。
今年の1月9日テレビ朝日「スーパーJチャンネル」で放送された「ゼロ葬特集」も気にかかった。「葬儀は行わず、墓は作らず、遺骨は火葬場から引き取らない」のがゼロ葬とのことだが、私個人としては、そうした考え方には賛同しかねる。そもそもテレビという公共のメディアを通じて葬送儀礼の放棄を推奨することは、不自然ではないだろうか。「人が亡くなっても何もしない」が一般的になった場合、どのような殺伐とした社会が形成されるのか想像に難くない。葬送とは他者の死について学ぶ機会でもあるのだから。
私は「ゼロ葬」という言葉を知った時、エドガー・アラン・ポーの短編小説「悪魔に首を賭けるな」を思い出した。この作品は1841年に書かれた作品であるにもかかわらず、まるで現代日本の「ゼロ葬の到来」を予見するかのような描写で終わる教訓譚である。
主人公の友人ダミットは壊滅的なまでに信心を持たず、亡くなっても誰も彼の葬儀の費用を支払わないし(支払わない者は「超絶主義者」と呼称される)、その遺体は人間として埋葬されることもなく動物の肉として売り払われてしまうのである。この話は人の生き方と葬送の倫理がつながっていることを知らしめる。今年2月には、高齢者の相談員をしている男性から「遺族がいるにもかかわらず、ゼロ葬という言葉の影響か、そのような事例が実際にあった」と聞き、危惧の念を抱いているところだ。
しかし、14年後半から意外な方向からのムーブメントが起こってもいる。インターネット上の仏教ブームを反映してか、仏教を題材としたテレビ番組(僧侶によるトーク番組、寺院探訪番組など)があきらかに増えているのだ。ツイッター等のソーシャルネットワークを通じて視聴者の反応がダイレクトに放送局に届く時代となり、それらの動きを無視できなくなったという影響もあるだろう。
総務省の調べでは「国民の過半数がソーシャルメディアを利用しており平日のテレビ視聴の20%が携帯電話との並行利用である」というから、それもうなずける。むろん仏教は短期的な流行で消費されるような存在ではないから、「仏法僧を求める長期的ニーズ」がネットを通じて発露したと見たほうが適切か。これらのムーブメントが、葬送儀礼解体に傾くメディアの動向の歯止めになる可能性は見いだせるだろう。
具体例としては今年2月9日にテレビ朝日「お坊さんバラエティ ぶっちゃけ寺」では供養のセーフティーネットとして寺院の合葬墓が紹介されていた。メディアの新たな動向が実際の布教につながるかどうかは寺院の地道な活動に懸かっていることは言うまでもないが、やはり好機と捉えるべきであろう。