謎の学僧 迦才の思想 ― 凡夫往生の意義を模索(2/2ページ)
浄土宗総合研究所嘱託研究員 工藤量導氏
順を追ってみてゆくと、まず隋代の慧遠や吉蔵は西方浄土を低級な化土とみなし、それは時代の定説となった。それに対して道綽が「大なる失である」と批判して報土往生説を強弁した。その後、迦才は道綽の報土往生説を支持せず化土往生説の立場をとった。一見すると、迦才の学説は慧遠や吉蔵の学説へと退行してしまったかのようである。ただし、これは当時の重要な思想背景を見逃している。
すなわち、慧遠以後に教理研究が躍進した『摂大乗論』(真諦訳・世親釈)の影響である。その成果は徐々に浄土教の方面にも反映されてゆき、仏土の性質を多方面から論じた十八円浄説の考察によって、諸仏浄土を一律に報土とみる考えが有力視された。もちろん西方浄土も報土とみなされたわけである。これは道綽の報土往生説を援護する学説のようにも思えるがそうではない。なぜならば、実践の主体者は凡夫ではなく、高位の菩薩であることを前提とするものだったからである。そのため、凡夫が易行の業因によって報土往生の大果を得ることは、道理として許されず、念仏による西方往生は「即時」ではなく、輪廻を繰り返した遠い将来の「別時」に過ぎない、という摂論学派による往生別時意説を誘発し、阿弥陀仏信仰は厳しく糾弾されるにいたった。
このような状況下、迦才は隋代に提唱された化土往生説に回帰しつつ、さらに凡夫往生の意義を模索し直してゆく。そもそも往生の成就とは、往生の瞬間的な成立だけでなく、西方浄土での彼土修道を通じて無上菩提を得るまでの行程、すなわち仏道の完成を保証するものでなければならない。報土と化土の性質における基本的な違いは①永久に存続するか否か(時間)②煩悩が残存するか否か(性質)③三界輪廻の内か外か(場所)④広さに限りがあるか否か(空間)――などに集約できるが、化土はいずれの点でも報土に劣っており、旧来の化土説では往生後の彼土修道の側面が万端とはいえない。ただし、化土往生であれば、凡夫の報土往生を固く閉ざす長安の学僧たちにも認められる余地が残されている。
この問題点を正確に見極めた迦才は、独自の西方浄土説として、長時化土説(有限であるが彼土修道に必要な時間は存続する)、通報化土説(報土と化土の両方に通じている)、処不退説(退転する縁がなく修行に適した環境)を提唱することによって、時間・階位・修道面での欠点を補強した、いわばアップデートされた化土説を提示したのである(別にその概念図を示した)。これらの新説はいずれも『摂大乗論』『大乗起信論』の研究から着想を得ており、つまりは対峙する学僧の思想的立場に同調しつつ説得を促すものでもあった。このようにみれば、報土往生説から化土往生説への流れは思想的な後退ではなく、摂論研究の高まりという歴史的経緯に同調してあらわれた凡夫往生説の必然的な展開であることが分かる。
以上、これまで等閑に付されてきた化土往生説にあえて重心を置いた思想史を素描することで、道綽や善導とは一線を画した「もう一つの凡夫往生」という可能性を提示できたのではないかと思う。迦才の浄土教においては、もはや報土往生は不可欠の要素ではなく、化土往生において信仰・理論の両面が充分に満足されてしまっているのである。とすれば、「どうして報土往生でなければならないのか?」。謎の学僧・迦才という存在は、我々が今一度深考すべき浄土教の根本的な問いを投げかけている。