日本仏教の文明史的役割 ― 人間的欲望を否定せず(1/2ページ)
広島大大学院総合科学研究科教授 町田宗鳳氏
戒律を重視する上座仏教と比べるならば、「肉食妻帯」が当然視されている日本仏教は、退廃の極みにあるのかもしれない。たしかに衆生済度はそっちのけで、伽藍の拝観、霊園や駐車場の経営などが本業となっている寺院を見ると、そういう批判を浴びても致し方ないと思ってしまう。伽藍だけはやたらと立派なのだが、本堂は閉め切ったままで、人が足を運んでいる気配がまったくない寺院も少なくない。恐らく盆や彼岸には大勢の檀信徒が押しかけるのかもしれないが、平生の参拝者がいない寺というのは、いかにも侘しい。住職に本物の信心がなければ、人は決して集まらない。それは宗派を問わず、寺院運営の鉄則だ。
その一方で年間を通じ、とてつもない数の観光客が訪れる拝観寺院があるのだが、その膨大な収益をいい形で社会還元しているところは稀有である。文化財維持などに経費がかかるのは承知の上だが、一般企業と異なり、法人税がかからないわけだから、世のため人のため、浄財を生かす道はいくらでもあるはずだ。少数派とは思うが、住職の中には豪華な庫裏に暮らし、庶民には手の届かないような高級車を乗り回している人もいる。不労所得を個人的奢侈のために浪費することが仏法にかなっているとは、とうてい思えない。
寺院の現状について、斯様に辛辣な言葉を書き連ねたが、私は日本仏教に悲観しているわけではない。実はその反対なのである。どこまでも世俗化を受け入れてしまう日本仏教の懐の深さには、世界にあまたの宗教があるといえども追随を許さないものがある。世俗化は宗教の堕落という見方もあるだろうが、また一方では、それは宗教の成熟度を示すという見方も可能である。たとえば、現今世界でイスラム教国家を見てみれば分かることだが、世俗化を拒み、復古主義を貫こうとする国にかぎって、原理主義者や過激派による武装闘争が絶えない。
幸い日本には、仏教が渡来するはるか以前から聖と俗を峻別するような宗教観は存在せず、すべてをきわめて曖昧な倫理観の中で受け入れてきた。とくに世俗性の象徴ともいえるセクシュアリティーを不浄なものとして否定する倫理観は希薄である。日本の基層文化を形成した縄文人は妊婦の土偶を大量に作り、人間の持つ「産みの力」をもっとも目出度きものとして讃えていた。古代神話でも、神々は人間よりも人間的に喜怒哀楽を露わにし、男女の交わりを繰り返しながら国造りをしたことになっているし、その系譜にある神道の儀礼でも、つねに男女の営みが祝福されている。
つまり、この国では人間的な欲望をも否定せず、それをより精神性の高いものへと昇華することに、宗教の役割が与えられてきたのである。農耕や交易などの世俗的営みを卑下するどころか、どんな職業であれ、汗水垂らして働く勤労の姿に高い精神性を見いだしてきた。現代においても、日本企業のサービス精神や高い技術力の背景には、そのような伝統的労働倫理が潜んでいる。
そんな精神文化が深く根を下ろしていた土壌に、大陸から持ち込まれた仏教の種子がまかれたのだから、インドや中国や朝鮮半島と同じ花が咲くはずもなかったのである。日本仏教の世俗性は、退行ではなく進化であり、この国の宗教の本質なのだ。
日本仏教の世俗化は大乗精神の究極的成果という見方もできるが、その核心にあるのは、日本文化特有の「発酵力」である。6世紀に朝鮮半島からもたらされたという仏教は、それ以前に存在した土着の民族信仰のみならず、道教や儒教の要素も積極的に取り込み、その上、日本人独特の感性で芸術性も大いに高めてきた。
日本仏教の中には密教系のもの、顕教系のもの、間接的にはゾロアスター教やキリスト教の要素まで混在しているわけだが、そのすべてを融合し、熟成させるだけの「発酵力」を有するところに強みがある。異なる食材を混ぜ合わせ、時間をかけて発酵させるのは日本食の特徴の一つであるが、それと同じことを日本仏教もやってのけてきたわけだ。