水平社宣言起草の背景 ― 西光万吉と三浦参玄洞(2/2ページ)
兵庫県小学校教諭 浅尾篤哉氏
この間の経緯は『中外』に投稿した三浦の記事から知ることができる。三浦は、1921年6月、『中外』の記者として、正式に社員となり大阪で単身生活に入った。以後、水平社の創立と初期水平運動について『中外』紙上で健筆をふるった。
1921年10月に水平社創立事務所が設立され、12月には、『水平社創立趣意書』「よき日の為めに」が印刷された。この趣意書は、「決して纏つたものでなく、その章段も僅か四ページの「解放の原則」の外に『吾等の中より』『運命』『無碍道』『夜明け』等の断片が附け加へられてあり、全篇が悉く散文詩的であつて結社の方法さへはつきりと示されて居なかつた」(「水平運動の思出」『左翼戦線と宗教』所収)ために、三浦は、次のような一枚刷を「趣意書」に添付したのである。
この小冊誌によつて、水平社を創立せんとする意味と、その進むべき道が如何なるものであるかは、理解せらるゝことゝ思ひます。(中略)勿論斯うした運動は過去に於て、種々な方法と、多くの人々――吾々同胞と否とを問はず――によつてなされ、現在もなされつゝあり、又なされんとしてゐます。過去に於けるこれ等の結果から見て何の効果を持ち來してゐないこと、(中略)そして――吾々と云つても吾々同胞と意ふ意味での――解放のためには、吾々の力ですることがより自然であり、より合理的でもあること、又そこには力強い何物かゞあることを信じてゐます。(後略)
この「一枚刷」の内容は、明らかに水平社宣言に生かされているであろう。
さらに三浦は、青年の親たちがどうしてもこの運動に着手することを許さなかったことに対しても
あなた方は御開山の御門徒として仮の世の事に齷齪するのはお恥かしい事だ、御勿体ない事だ、いづれはお浄土に参つたら一列平等の証りが開かれるのぢやもの……と云つた風な一面のみを眺めて彼の御同朋御同行と仰せられた人間的自覚に生きる一面を見落して御座るのぢやないですか。苟も末は御浄土で同一味の証りを開く事を信楽する位の道連れが不合理な差別観念によつて同朋を虐げて居るといふやうなむごたらしい事を平気で見逭しておくのは第一あなた方の信仰そのものを正さねばならぬ事柄だと思ひます。お浄土に参る信仰が現実に働き出したとき他人の不合理を認容するといふやうな極めて親切でない態度がとれやう筈がないと思ひます、出来ても出来なくともお浄土に参るにふさはしい道連れを地上に拵へるという事に骨を折らずには居れなくなつた時始めて親鸞上人のお心持ちに同する事が出来るやうに私は考へられます……」(「ある夜」(下)『中外』1922年2月7日)
このように「一枚刷」が水平社宣言に影響を与えたことが考えられるし、親鸞の思想についても、西光に与えた影響がうかがえるのである。宮橋國臣氏(『至高の人 西光万吉』人文書院)は、参画者の一人である米田富(1901~88)の聞き取りで、宣言の骨子は西光が作り、参画者の協同で完成され、三浦の「一枚刷」が宣言に影響を与えた可能性を明らかにしている。
さて、人間は尊敬されるべきものであると、日本で初めて宣言されたのだが、人権を確立する思想的条件は存在したのだろうか。ほどなく到来した軍国主義の時代と敗戦。水平社宣言は、人権意識が確立する世の中とは如何なるものなのか、今も我々に問いを投げかけている。