メール相談で大切なこと ― 「届いている声」を待つ(2/2ページ)
大谷大非常勤講師 佐賀枝夏文氏
……そのなかで感じ、考えたのは、メール相談は個人メールのように「即時性」の高いものではないということです。相談者は相談メールを発信して、返信メールまで「待つ時間」があります。また、担当するメール相談者は、相談メールを受けてから、返信メールを送信する「あいだ」があります。このことは、相談室や電話相談とのあきらかな違いでした。面談のように臨場での応答ではありませんから「待つ時間」と「あいだ」が、いい役割をすることに気がつきました。
わたしたち現代人は、「待つこと」を受け入れにくくなっているようにおもいます。そのなかで、わたし自身もカウンセラーとして「待つこと」を忘れていたのかもしれません。
わたしが心理カウンセラーになろうとおもったのも、また社会福祉実践に関心を持ったのも、もとをたどれば、両親と早く別れた「喪失」があったからです。そのなかで、満たされない気持ちが自然に心理カウンセラーや社会福祉実践へ向かわせていたようにおもいます。その「あゆみ」のなかで、うしなうことはマイナスと考えていました。いうならば、うしなったものを「取り戻すこと」「埋めること」を勉強して実践していました。
いつのころからか、人生で喪失を体験した先輩たちの「足あと」を調べていました。西本願寺の九条武子さまは、関東大震災で「喪失」を体験され、それを契機に生き方が「転換」し、「よみがえって」生きはじめられました。また、真宗大谷派の中村久子さんは、四肢切断という障がいを生き、人生の後半に「わたしを導いてくれたのは、なくなった手足です」ということを書き残しています。……仏教の教えにある「無憂」「無碍」「無量」の世界が説かれているのですから、うしなったから「なにか」で埋めたらいいということではありません。それを知ったのは、ある驚きでした。
わたしが懸命に聴きだそう、そして支援しようとしていたことが「勘違い」であるようにおもいはじめました。仏さまのお慈悲はすでに、隈なく届いているということにようやく気がつきました。
いままで、相談支援は悲しみやつらさを消すことや大丈夫になることだとおもっていたのですが、先輩の生き方から「悲しみ」や「つらさ」によって導かれ、「よみがえる」ことを教えていただきました。わたし自身が一番苦手としてきた「悲しみ」「つらさ」でしたが、大切な役割をはたすことに気がつきました。
「悲しみ」や「つらさ」によって、ひとは「転換」した世界に出遇うということかもしれません。その「転じた」世界は、仏教の説く「無」をいただく世界です。「さわり」ばっかりの人生が「無碍」となり、「限り」に悲しんでいたのが「無量」となり、「憂い」だらけが「無憂」となるのですから、わたしが「やっかい」と感じていたものが大切な役割をすることになります。
勘違いからスタートした相談支援、福祉実践でしたが、気がついてみれば、わたしがなければいいとおもっていたことが大切だったということでした。メール相談で「届いている声」を待つことで、いいとおもいます。それは、相談メールを送る方にも、応答するわたしにも、仏さまのお慈悲は「届いている」のですから、そのことを大切にしていこうとおもいます。