私という存在と「時」― 死は自身にとっては虚(2/2ページ)
時宗教学研究所研究員、一向寺住職、医学博士 峯崎賢亮氏
例えば筆者が檀家の前で説法するときには、賢善精進しているような姿を意識的に作っているし、妻の前で見せるような醜態は隠す。
説法は本来、2千年の時を越えて多くの人々を教え導いてきた仏法を説くという行為である以上、説法するためには、それ相応の準備の「時」を刻み、その真剣な「時」こそが、説法する際の賢善精進の姿を支えている。つまり、檀家の前で見せる表の姿も、隠す裏の姿も、その元となるような実体験の「時」によって構成されている。
現実の生活において人に出会うと、その人との親しさや利害関係などに応じて、自らの体験や実績などを取捨選択し、見せても良いと判断した体験の「時」のみによって構成した表の私を作り上げ、見せたくないと思う体験の「時」は裏に隠すという行為を行っている。表の存在も裏の存在も、すべては自分の実の「時」で作り出すが、体験した「時」を取捨選択して再合成したという点で虚像である。本来私という存在に表裏はないが、他者の介在によって、表の私、裏の私が創作されるのである。
しかもこの創作は、精神的エネルギーを消耗する作業である。特に不特定多数の人の前で、いつも同じ表の私を維持し続けることは精神を疲弊させる。逆に一日中他者の介在が無い場合、表の私、裏の私という創作を行うことができなくなるため、私という存在を見失う。それは、私という存在を認識するためには、他者の介在を必要としうる要素があるからである。これを鷲田清一氏は「私が自分の存在を私として意識するのは、自分の存在が他者の思いの宛先となっていると感じること」と表現している。
他者の介在により表の私、裏の私を再合成するためには、自分の存在が他者の思いの宛先となっているという、思い込みが必要となる。他者の思いの宛先になっていると思い込んでいるからこそ、例えば妻の前では、夫としての表の私を再合成して行動している。そして自分に、私という存在を常に意識させうる他者(妻)を失うということは同時に、他者の思いの宛先になっていると思い込んでいる私を失うことを意味する。それはしばしば「私は夫として、いったい何をしてきたのか」という嘆きをもたらす。
また体験の「時」の取捨選択には、その体験に伴う感情が重要である。誇らしいといった正の感情を伴った体験は表に回ることが多いし、逆に他人に知られたくないような負の感情を伴った体験は、常に裏に居続けることになる。表に出すか、裏にしまい込むかは、すべて私が選択するので、表に回ることなく、常に裏側に居続ける体験の「時」に意識が向いたとき、人はそれを重荷に感じる。特に死を意識しなければならない状況になったとき、秘密にしていた体験は、臨終が間近になった人を精神的に追い詰める。
前後際断された実の「時」に絡みつくように虚が生じ、次の実の「時」を生み出しては消滅する。死という究極点においては、虚も表も裏もすべてが消滅する。成仏したとき、仏の「時」に引き継がれるものがあるとすれば、それは結局、生前中に体験してきた無数の実の「時」であろう。
仏は理解を超えている。だから法然は、仏を観想するのではなく南無阿弥陀仏を称えるという行為に徹し、一遍は踊り念仏を修し、道元は只管打坐という行為に打ち込んだ。結局仏というものは、これらの実の「時」にしかあらわれてこないからかもしれない。詳細は『時宗教学年報』に投稿中である。