幕末の清浄華院と会津藩 ― 御所に近く、警備の拠点(2/2ページ)
浄土宗大本山清浄華院史料編纂室研究員 松田道観氏
『日鑑』には11月の前半より会津藩と交渉が行われたと記されている。この時すでに塔頭7カ院中6カ院に、御所警備を担当していた肥後熊本藩と大檀越であった阿波徳島藩が寄宿・滞在していた。熊本藩の寄宿交渉の際、清浄華院は清和天皇尊像や皇族の位牌を安置する寺であるから、として御用免除を願い出たが、結局聞き入れられなかった。会津との交渉でも当然免除を願い出ているが、会津藩公用方の外島機兵衛が使者として来寺して説得を受け、公家や宮家の檀家の多い格式ある塔頭として唯一御用の免除を受けていた松林院、さらに本坊方丈も結局貸すことが決まってしまう。松林院の御用免除の理由であった尊牌(皇族の位牌)は本堂へ遷座、方丈(法主)や塔頭の住職達も仮方丈となった阿弥陀堂へ押し込められてしまった。
そして1863(文久3)年12月16日、容保は会津藩士を伴って正式に清浄華院に入り、塔頭松林院で生活することになった。清浄華院にはそんな容保を支える藩士達ももちろん滞在していた。会津藩側の史料(『維新階梯雑誌』)によると、少なくとも銃や弓などを備えた50人もの藩士が清浄華院に厳重な警備を敷いていたとある。これに交代なども考えれば、相当数の藩士が詰めていた事だろう。これには寄宿の直前に容保に対する天誅予告の落書、最中には会津藩と新撰組に対する批判を記した高札が反対勢力によって掲示されるなどしており、警備を厳しくせざるを得ない状況であったからである。
容保の清浄華院滞在は1864(元治元)年5月11日まで、その期間約半年であった。任務の重圧からか滞在中の容保の体調はすぐれず、結局療養のためくろ谷へ戻るのである。しかし会津藩士は、そのまま1867(慶応3)年正月まで清浄華院に滞在する。そして容保が清浄華院から出たあとすぐに池田屋事件が勃発、京都奪還を目指す長州藩が挙兵、その動乱は蛤御門の変へと続いていく。療養していた容保も御所警備のため参内、結局2カ月も経たないうちに舞い戻ることになってしまった。
寺務記録である『日鑑』には、寄宿中の会津藩や容保の動向についてほとんど記述がない。だが、1864(文久4)年正月10日には容保から年頭挨拶の使者がくるなど、季節の挨拶や贈答といった遣り取りについての記述は多い。容保は寄宿によって寺へ迷惑をかけていることを謝し、感謝の意を込め蠟燭200挺を寄進したという。清浄華院に対する会津藩の態度は大変丁重であり、同様に寄宿した他藩(前述の熊本藩、徳島藩の他に薩摩藩も寄宿している)と比べても関係は良好であった様子である。しかし御忌法要などの年中行事や諸法要が延期されるなど、寺側の苦労が絶えなかったのも事実である。
手紙の差出人や挨拶の使者など、寺に直接関わりを持った人物の名は『日鑑』にも記録されている。公用方のような役職者はもちろん、白虎隊士や戊辰戦争で命を落とした人々の名も多い。また容保滞在期間中に、新撰組の近藤勇と土方歳三が召されたとする史料(『旅硯九重日記』など)もあり、場所は特定されないが直接接見したのであれば、その現場は清浄華院であっただろう。寺側の記録に記事が見出せないのは残念である。
山本覚馬は、蛤御門の変ののちに眼病を患う。彼の伝記はその療養のために清浄華院へ滞在したと記すが、政治の中心地である御所に接する寺へ静養のために入るとは思えない。不穏な政治状況の中、御所の警備を続ける会津藩にとって清浄華院は拠点として重要な位置を占めていたに違いない。むしろ渦中から離れずに居ることを望んでの滞在だったのだろう。
洛中の大寺院の多くは、清浄華院と同様に各藩の寄宿に充てられたが、その詳細はあまり知られていない。『日鑑』をはじめとする近世の史料はあまり顧みられないが、幕末の志士たちが京の町のどこを拠点とし、どこを闊歩したのか、寺々の記録はそれを知る手掛かりとなるだろう。