幕末の清浄華院と会津藩 ― 御所に近く、警備の拠点(1/2ページ)
浄土宗大本山清浄華院史料編纂室研究員 松田道観氏
昨年の大河ドラマの主人公は、福島県会津の出身者で幕末から明治にかけて活躍した新島八重であった。しかしドラマの舞台は京都が多く、彼女よりもむしろ兄・山本覚馬が主人公のようだった。
浄土宗大本山清浄華院には、幕末の一時期、山本覚馬が滞在していたとされる。覚馬は1862(文久2)年に京都守護職となった会津藩主・松平容保に供奉して上洛した藩士の一人であるが、彼が清浄華院にいたのには理由がある。実は当時の清浄華院には会津藩主である松平容保が滞在し、彼以外にも多数の会津藩士が詰めていたのである。
このことは今までほとんど知られてこなかったが、近年江戸時代の寺務日記『日鑑』の解読が進み、会津藩滞在の事実も確認され、ドラマを契機として境内に石碑も建てられることとなった。本稿では『日鑑』の記述を中心に、この知られざる幕末の史蹟としての清浄華院について紹介したいと思う。
まずはじめに清浄華院の歴史を紹介しておこう。寺伝によれば清浄華院の創始は、慈覚大師円仁が清和天皇の勅願により宮中に禁裏内道場として創建した。のちに法然上人が後白河・高倉・後鳥羽の三天皇に授戒をした功績によってこの道場を賜り、浄土宗の大本山となったという。創建に関わる寺伝が事実かどうかはともかく、史料上では少なくとも南北朝時代には皇族や公家の帰依者を得ていたことが知られ、室町期には皇室や幕府の権威を背景に浄土宗鎮西派の筆頭寺院として振る舞うに至った。その後、応仁の乱と戦国時代の混乱で打撃を受け、その繁栄は失われることとなったが、近世も皇族や公家などの檀家と縁を保ちながら、皇室ゆかりの由緒ある寺院として、鎮西派本山の一つに数えられ、御所東に隣接する伽藍で幕末を迎えることとなる。
幕末の文久年間、朝廷の勢力図は尊王攘夷へ大きく傾く。攘夷派勢力は将軍・家茂を上洛させ、攘夷を誓わせることに成功する。しかし当時の京都は過激な攘夷派による暗殺事件が頻発、治安が悪化しており、幕府はこうした状況下での将軍上洛にあたり、諸藩の藩士たちを上洛させ、その警護に当たらせることにした。
会津藩もこうした流れの中で、藩主・松平容保が京都市街の治安維持を担当する京都守護職に任命され、藩兵1000人を引き連れて上洛することとなった。山本覚馬もそうした藩士の一人であった。
幕末の会津藩といえば、浄土宗大本山くろ谷金戒光明寺を本陣としたことが知られている。金戒光明寺は、高台に建つ城に似た構造や規模が守護職の拠点にふさわしいと考えられ、本陣に定められた。だが、会津藩にはいくつかの拠点があり、藩士は分散して居住していたようだ。
1863(文久3)年8月18日、容保は中川宮朝彦親王とともに過激攘夷派とその一翼の長州藩を朝廷より締め出す政変を起こす。この政変は孝明天皇の信任を得た行動だったとされ、政変後も御所近くに居ることを求められた容保は、御所中立売御門内の施薬院邸に入る。施薬院邸は家康が上洛した際に衣服を改めたという由緒をもち、また5月から会津藩兵が警護していた蛤御門にも近かった。
しかし同年秋頃、将軍・家茂の2度目の上洛が確実となる。家茂は家康の前例に倣って施薬院邸に入ることになり、容保は別の場所に移る必要に迫られる。その移転先として選ばれたのが清浄華院であった。