イスラームと障碍者-すべて神の予定、輪廻を認めず(1/2ページ)
関西大文学部総合人文学科 比較宗教学専修教授 小田淑子氏
イスラーム社会では道端やモスクの近くで、肢体の不自由な人が物乞いをしていて、多くの通りすがりのムスリムが寄付をしている。イスラームでは伝統的に障碍を恥じることなく、生きやすかった。日本では、戦後になって障碍者教育や共同作業所などの施設が少しずつ整い、障害者自立支援法など法的措置も充足してきた。最近ではNHK教育テレビで障碍者の生き方を紹介し、障碍者たちによるトーク番組も始まっている。だが、伝統的に日本では障碍を因果応報の結果として捉えがちで、家の恥として人目に触れることを嫌った話が多かった。イスラームにおける障碍者の捉え方に触れ、日本との違いを考えてみたい。
イスラームでは神の予定が神、天使、啓典、預言者、来世(終末)と並ぶ六信の一つである。幸運も日々の無事も不運も、事故や病、非業の死もすべて神の予定として受けとめる。障碍もまたしかりである。輪廻を認めないイスラームでは、不幸や障碍を前世の因縁とすることはなく、また神の罰の結果だとも考えない。当事者も周りの人々も障碍などの原因を追及せず、孤児の境遇も障碍を負う人生も神の予定の出来事として受け入れる。そのように受けとめれば、障碍を恨み、恥ずかしく思う必要はない。ムスリムのすべきことは、彼らの社会生活を支援することである。イスラーム社会では、民衆にもそのような意識が根づいていて、まったく差別がないとは断言できないが、障碍者が自らを恥じて卑屈になることはない。
日本人の感覚からすれば、自分自身や身近な人が病に苦しみ、障碍を負い、悲惨な事態に陥った場合に、それを神の予定として淡々と受け入れるのは優れた宗教者には可能でも、普通の人にはできない、なぜそうなったのかと問わずにいられないと思う。だが、ムスリムはそうしない。悲惨や苦悩に直面した人間の感情は古今東西変わらないと思いがちだが、苦悩をどう捉えるかは宗教により説明が異なり、対応の仕方にも相違が生じる。
クルアーン(コーラン)には病や死の不安や苦悩に関する物語や叙述はなく、苦悩や不安からの解放や慰めも説かれないが、かなり詳細な相続規範がある。相続は親族の死後に生じるが、死と死者、遺族の悲嘆には何も触れずに、相続のもめごと回避が説かれている。日本人は「イスラームはこれでも宗教なのか」と感じるだろう。日本人の多くが病や死を機縁に宗教に近づく。日本に出家者は少ないにもかかわらず、現代でもそうした機縁で出家した昔の人々の物語に共感する。それは、身近な人の病や死が人生の無常に気づかせ、それが宗教的生の起点になると考えているからである。日本人はそれを宗教に対する自然な態度だと思っているが、イスラーム社会でこの話をしても通じない。イスラームには出家制度がないためでもあるが、無常を感じて宗教に目覚めることが理解されない。イスラームで人が宗教に目覚めるのは、社会の不正義やさまざまな自己の問題を機縁にする。仏教は生老病死の四苦を教え、病と死を免れない人間を深く考察してきたが、イスラームは病と死には淡白で、健康な社会人が家庭を営み経済活動をしつつ神に帰依する方法を深く考察してきた。
ムスリムもむろん死を悲しみ、病や障碍に苦悩しないわけではないが、神の予定として受け入れる。未来の予定や約束をする場合に、アラビア語が母語でないムスリムも「インシャーラー(もし神がお望みであれば)」という語句をつける。遠い未来の約束、希望だけでなく、明日、今夜の予定を話すときにもこの語句を付け加える。この語句は広く深く人々の心に浸み込んでいる。神の予定は信じるか否かを問うまでもなく、自明のように受けとめられている。「インシャーラー」は実際には約束不履行の怠け者の言い訳にも使われるように、神の予定は人間の責任をあいまいにし、無気力にさせることもある。神学的には神の予定と自由意志の関係は難問で、イスラーム神学でも議論された。だが、イスラームの六信には終末と来世が含まれており、終末に一人一人が神によって裁きをうけ、来世の居場所が天国か地獄かを決定される。この裁きは、一人の人生は各人の所業であり責任であることを前提にしている。クルアーンは神の予定とともに、人間の自由意志と行為の責任も重視している。終末の裁きと来世の存在もまた民衆ムスリムの心に深く浸透しており、予定論と自由意志は民衆の心の中では矛盾なく深く信じられている。