初代が始めた絵解き復活 女人の信仰の灯、次代へ
愛知県稲沢市・善光寺東海別院 林和伸住職・麻子夫人
愛知県稲沢市にある善光寺東海別院は、所在の地名から祖父江善光寺と親しまれている単立寺院。林和伸住職と麻子夫人は、同寺の開創を資金面で支えた「善光寺如来絵解き」布教を復活させた。曾祖父の林旭住・初代住職(1870~1944)がこの地にともした善光寺信仰の明かりを受け継ぎ、荘厳の復興と次代への継承という強い思いが絵解きの復活を後押しした。
同寺の開創は明治時代末期の1911年。開創前の09年から2年続けてもともと蓮田だった境内地で一つの茎の蓮から二つの花が咲いた。瑞祥として初代住職と、地元祖父江で銀行などを経営していた実業家の山内亀次郎氏らが中心となり、蓮田を埋め立てて信州善光寺別当大勧進祖父出張所を設けた。
なぜ善光寺如来だったのか。和伸住職は「善光寺が女人の信仰の地だったから」と分析する。県内で国内初の官営紡績工場が操業して以降、製糸産業が盛んとなり祖父江でも多くの女性が労働に従事した。女性工員らの心の支えにという初代住職の思いが善光寺如来の分身勧請につながったのではと考えられる。
善光寺如来絵伝の絵解きは、布教と本堂建立の浄財勧募のため初代住職が始めた。絵伝を6席に分け節談説教の語り口で県内をはじめ近隣県に出向き、絵解きを行ったと伝わる。絵解きは2代目住職の旭山氏(1906~92)に受け継がれたが、その後途絶えていた。
絵解き復活のきっかけは和伸氏が副住職として祖父江に戻ってきて間もない2003年の四善光寺(信州、甲斐、飯田、祖父江)の同時御開帳だった。和伸住職の学生時代の恩師で話芸の研究で知られる関山和夫・佛教大名誉教授の存在も大きかったと振り返る。2代目住職が書き留めた台本と録音テープが残っており、それを手掛かりに、長時間に及ぶオリジナルの絵解きに比べて約20分で終える内容の台本にまとめた。
絵解きの実演は麻子夫人が担当した。発声練習のために詩吟に通い、出身が大阪だったことから標準語を練習。アドリブで時事問題も盛り込んだ。「地を這うような努力の日々でした」と吐露する。
絵解きを女性が行うことについて和伸住職は「女性の声の方が伝わりやすい」ということと「苅萱道心と石童丸」の絵解きで有名な長野市の西光寺や長野郷土史研究会の小林一郎・玲子夫妻の絵解きが女性だったことが影響したという。
03年当時雨漏りもあった本堂屋根は、復活した絵解きの浄財で修復を終えた。住職夫妻の布教が女人の信仰の灯火を次代につないでいく。
(伊賀明)