水平社創立100周年を迎えて― 西本願寺教団のこれまでとこれから(1/2ページ)
浄土真宗本願寺派宗会議員・同和教育振興会事業運営委員 神戸修氏
1922年3月3日、「人間を尊敬する事によって自らを解放せんとする者の集団運動」たる全国水平社が結成された。特に「決議」に掲げられた糾弾は、当時支配的だった「差別は差別される側に原因がある」という自己責任論の拒否と批判を意味し、人権侵害正当化論の定番たるこの自己責任論が現在でも格差や貧困の問題で主張される今日、その思想的意義は再評価されるべきであろう。
ちなみに、宗教的・仏教的自己責任論とでもいうべきものが「悪しき業論」である。また水平社の「同朋・同行としての御開山」という発想も重要である。曰く「念仏称名のうちに賤しいもの穢れたものと蔑まれていた沓造も非人もなんの差別もなく御同行御同朋と抱き合ってくださった」「この御開山が私共の御同行です。私共はこの御開山の御同朋です。」〈註1〉。水平社は活動の力の源泉を親鸞聖人に求めたのである〈註2〉。
一方、西本願寺教団は、水平社を「悪平等論」で批判。「悪平等」とは「御垂示」(大谷尊由〈註3〉管長事務取扱、1922年3月21日)に示され、「演達」(花田凌雲〈註4〉執行 同年同日)には、差別は波の形の違いのようなもので形の違う波は水という点では同じ、という例えの上に「貴賤上下賢愚貧富と様々に別れてあるけれど、みな因縁所生に由るので真如法性の道理より見れば平等の理は具わりている」と示されている〈註5〉。つまり水平社は、「本来の平等」を差別として批判して平等を損なう「悪平等」の間違いを犯している、という批判である〈註6〉。
この「本来の平等」「差別即平等」という発想は「本覚思想」とも呼ばれる。「本覚思想」とは「人間を含む一切合財が、本来清浄であるという証明なしの権威を前提に、ことごとく「一」なる根源的悟り(本覚)にすくい取られているという考え」であり〈註7〉、「社会的差別と自然的差異を無意識に(ときには意図的に)混同することによって、現実的社会的な差別はそのままで平等だという強弁」である〈註8〉。
また水平社の重要な思想に、「人間を尊敬する事」(以下「尊厳」)がある。差別の加害者も、差別により自己肯定するという精神的・人格的に荒廃した「尊厳の喪失」という状況にある。差別・被差別双方からの解放こそが「人類最高の完成」(「綱領」)である。これが「尊厳」の第一の意味である。
第二に、人間の「尊厳」は、現実の人間の生全体の尊厳という意味である。「現世を耐え忍び死後は浄土へ」という慰めは、人間を尊敬するようでありながら、むしろ人間を侮蔑する思想だ。そして宗教が、この「人間侮蔑の思想」に堕していることを「背後世界」「ルサンチマン」「デカダンス」「末人」などの概念装置で鋭く批判したのがニーチェであり〈註9〉、このニーチェを礼賛したのが中村甚哉〈註10〉であった(「或る人へ」、1922年)。
中村のニーチェ礼賛には、被差別者に「部落に生まれたのが因縁、悪いねん、あきらめるしかないんや」〈註11〉という諦めをもたらすような仏教への批判と、生きる力の源泉たる親鸞聖人の再生への願いが伏在していた。
西光万吉の「生の思想」もこの中村の批判と願いに重なるものである。曰く「吾々はあらゆる思想を、それが生命の思想であって死の思想でない限り、それが人間の活動力を増す限り吾々はそれを歓迎する」(「解放の原則」、1921年)。
この西光の「生の思想」と鋭く対立したのが『親鸞聖人の正しい見方』(大谷尊由著、興教書院、1922年)であった。曰く「聖人の同朋主義の価値は、之を法悦生活の上に体験せねばならない、社会改造の基調などに引き付けるには、余りに尊と過ぎる」。
これに対し西光は「業報に喘ぐ」(1922年10月・12月に『中外日報』紙上に連載)で「社会改造の基調を卑しむことは人間生活の半分を卑しむことだ」と反論した。ちなみに、当時中外日報社にあってジャーナリストの立場から水平社運動を援護したのが三浦参玄洞〈註12〉であった(詳細は『本願寺史』増補改訂版 第三巻 本願寺史料研究所、2019年)。
西本願寺教団の対応としては一如会があった。一如会では、糾弾を肯定的に評価し、差別の原因を被差別者の側ではなく加害者の側においてとらえ、加害者の「懺悔」こそが重要であると宣言した梅原真隆〈註13〉が注目される。