大古墳群と土師氏の関わり―墳墓造りを担った古代氏族(2/2ページ)
大阪府立近つ飛鳥博物館館長 舘野和己氏
8世紀になっても土師氏は、持統太上天皇の火葬施設や文武天皇の陵墓造営などに携わった。さらに治部省の管下にあった諸陵寮という、天皇・皇族・高官の喪葬や陵墓の管理をつかさどる役所の官人になった。ウジの職掌の伝統は続いていたのである。
しかし8世紀も終わりに近づくと大きな変化が起こった。桓武天皇の時代の天応元(781)年と翌延暦元年に、これまで天皇の喪葬の時は凶事を掌り、祭日には吉事に与り、その仕事は吉凶相半ばしていたが、現在では専ら凶儀にのみ従っているとして、ウジの名を住んでいる所の地名によって改めて頂きたいと、土師氏が申し出た。桓武はそれを許し、ここに菅原氏と秋篠氏が生まれたのである。専ら凶事に与っているというのは事実に反するが、土師氏というウジの名にまとわり付いている喪葬のイメージを、振り払いたいと思うに至ったのである。これには当時次第に強くなってきた、死などの穢れを避けようとする意識との関係もあったろう。菅原と秋篠はいずれも奈良市に今も残る地名である。菅原は垂仁天皇陵とされる宝来山古墳に近く、秋篠は佐紀陵山古墳(日葉酢媛陵古墳)や五社神古墳(神功皇后陵古墳)が近接する。これらは佐紀古墳群(4世紀中頃~5世紀後半)に属する大型古墳である。
また都を平城京から長岡京に移した後の延暦8(789)年12月に、桓武の母の高野新笠が亡くなり、翌年正月に大枝山陵(京都市西京区)に埋葬された。すると桓武はその年12月に、新笠の母である土師真妹の一族を、大枝氏に改めたのである。桓武による土師氏の3度目の改姓だが、今度は陵墓の所在地名によるものであった。なお大枝氏は貞観8(866)年に、表記を大江氏に変えた。
こうした動きと呼応するように、延暦16年4月に人情は喪葬のことを憎むので、専ら土師氏一氏の職掌となっているが、穏やかなことではないのでやめさせるという措置がとられた。これで土師氏が特に凶事に与るということがなくなり、職掌としての喪葬からの脱却が実現した。後に菅原道真や大江匡房などが出てくる下地ができたのである。
ところで大枝改姓の勅には、土師氏には全部で四腹(四つの血統)あり、高野新笠の母の家は毛受腹であり、それ以外の三腹は秋篠氏や菅原氏であると述べられている。毛受は百舌鳥古墳群の所在地である。そこにいた土師氏が毛受腹であり、他に秋篠や菅原の土師氏がいた。そこにも天皇や皇后などの陵墓とされる大古墳があった。それでは残る一腹はどこか。おそらく古市古墳群の近くにいた土師氏であろう。藤井寺市に近鉄「土師ノ里」駅があり、近くに鎮座する道明寺天満宮の南には土師氏の氏寺である土師寺があったとみられ、実際「土寺」と書かれた墨書土器が出土しているのである。
このように百舌鳥・古市・佐紀古墳群の近くには、土師氏が住んでおり、それらの築造に土師氏が関わったとみてよい。ただウジというものが成立したのは、おそらく5世紀末から6世紀初めの頃であった。それ以前から土師氏の前身となる一族が陵墓の築造を代々担ってはいたが、土師氏というウジができたのは、古墳群築造以後の時期に下るわけである。本稿で土師氏と書いてきたのは、そうしたプレ土師氏時代をも含めてのことである。
さてそれでは土師氏自身の墓に、何か特徴があるのかというと、たとえば円筒埴輪を棺に転用したもの、あるいは棺専用に作られた円筒埴輪などの埴輪棺、さらには陶棺と呼ばれる粘土を焼いて作った棺がある。佐紀古墳群に近い奈良市西大寺赤田町では、斜面に横穴を掘り陶棺を納めた墓が多数見つかっており、中には全長2・3メートルに及ぶ大きな陶棺もあった。これらが土師氏が自らのために造った墓であるとみられているところである。
土師氏は天皇らの墳墓造りや喪葬儀礼に関わる職掌を、誇りをもって果たし、自らの墓にもその技術を生かした。本博物館の展示では、その辺りの遺物が中心となるが、時代が下るとそこからの脱却を図るに至った。背後には人の死への思いの変化がうかがえる。それも重要な歴史的事実である。