親鸞真蹟の発見―『廟崛偈』文と『涅槃経』文―(2/2ページ)
同朋大仏教文化研究所研究顧問 小山正文氏
重要なのは上にみた新出の偈文が、専光寺の右掲偈文に接続する内容であり、かつ二つの断簡の料紙が同質で、さらに専光寺断簡の大きさも縦26・5センチ×横17・6センチとほぼ同大という大変興味深い事実である。つまり2断簡は、各左端に認められる大谷派本願寺13代宣如(1604~58)の極書が400年前に付されるまでは、1紙9行であったものを4行と5行に二分割したことをこの事象は物語ろう。
それでは肝心の筆蹟については、両者いかがなっているのであろうか。掲載写真の上下を見比べてもらえば一目瞭然、二つが同一筆者による同時執筆であることは、誰の目にも明らかで寸毫の疑いもあるまい。今この辺のところをより詳しく吟味しておくと、上下の写真に登場する5個の「生」、4個の「世・大・為」、3個の「母・尊・衆・所・一」、2個の「定・悲・度・諸・父・地」の各文字の筆法筆致は、全く同じであることを否定しがたく、評価が定まっている専光寺の断簡が親鸞真蹟ならば、新出のこれも同等に真蹟とみなして可となろう。
右の見解をさらに補強するのが、Aに続くBの『涅槃経』巻第二十梵行品阿闍世王供讃偈文八句である。実はこの同文部分を親鸞は、元仁元(1224)年頃の成立とされる『教行信証』信巻(『集成』一―三〇〇~一)、文暦2(1235)年~嘉禎3(1237)年頃に成った『見聞集』二(同九―一一四~五)、康元元(1256)年撰述の『浄土和讃』(同十―口絵三・三八〇~一)などの著作類でも引用しており、よほど重視していた経文の一つであったとわかり注目されるが、今この3点の親鸞真蹟『涅槃経』文と今回出現した同じ箇所の『涅槃経』文を比較対照した場合、年代差による字形の若干の変化はみられるものの、4点はすべて親鸞その人の手になる真蹟と何人も首肯できよう。
ところで、親鸞は総計500首以上もの仏教和讃を作ったことでも知られる人だが、その4割に当たる200首が、聖徳太子の和讃であるのは、かれの篤き太子信仰のあらわれと注視しなければならない。このうち代表的な建長7(1255)年83歳作の『皇太子聖徳奉讃』75首につき少し触れておく。これの親鸞真蹟原本は現存しないけれども、重要な写本が2本ある。
1本は親鸞在世中に高田門徒祖の真仏(1209~58)が書写した津市専修寺蔵本。いま1本は前記の真仏没前後頃に、親鸞自身が再度筆を執って愛弟子の覚信へ授与した真蹟本である。残念ながら覚信授与本は、本願寺12代教如(1558~1614)の江戸時代初期には解綴されており、現在は断簡状態で25枚ほどが各地に散在するばかりとなっている。
したがって親鸞真蹟覚信授与本の正確な全形はわかりがたいも、幸いなことに大谷大学図書館に恵空(1644~1721)が写す覚信授与本系の一写本を蔵す。これと現存最古の真仏本を比較対照してみると、二つの大きな相異点のある事実が浮かぶ。
一つは真仏本の47・48首目に恵空本の67・68首目が入っており、逆に恵空本の47・48首目へは真仏本の67・68首目がきている違いである。これは真仏本の方が文意がよく通るので、覚信授与本における親鸞のケアレスミスとみて問題なかろう。
相異点の二は真仏本にない『廟崛偈』と『涅槃経』の各文が、親鸞真蹟覚信授与系恵空本の末尾には付されていることである。この事実はいうまでもなく専光寺と今回出現の両文が、覚信授与本『皇太子聖徳奉讃』に付載されていた親鸞真蹟断簡であったことを雄弁に物語る何よりの証左と信じるが、いかがであろうか。読者諸賢の垂示を俟つものである。
新出の本真蹟は、その後、筆者の自坊である愛知県安城市の本證寺で収蔵保管されており、再来年の聖徳太子1400回遠忌を期して、散在する覚信授与本親鸞真蹟を一堂に集めた展示で、一般公開できればと切念しているところである。