八坂神社と清水寺の史料集相次ぐ(2/2ページ)
奈良大教授 河内将芳氏
ところが、今回収められたものと比べてみると、「烏丸と室町間」にあった「ありかり山」(芦刈山)と「北はたけ」(北畠の声聞師)が出していた「さきほく」(鷺鉾)のふたつの山の名が書き落とされていることが明らかとなり、その結果、室町時代の山鉾の数は、従来、58基とされていたものを60基と訂正しなければならないことなども明らかとなったからである。
いっぽう、江戸時代前期に編纂されたと考えられる『祇園本縁雑実記』『祇園社本縁雑録』というふたつの古記録が今回はじめて活字となった点も注目される。先ほどふれた『祇園社記』は、行快が八坂神社(祇園社)伝来の古文書や古記録を編纂しようとして書き写したものであったが、それより先行する事業がすでに行われていたことが明らかとなったからである。
しかも、『祇園本縁雑実記』『祇園社本縁雑録』には、現在は伝わっていない古文書や古記録が書き写されているだけではなく、当時、社内で伝えられていた、さまざまな伝承も書き記されている。今後、中世、そして近世の八坂神社の歴史を考えていくうえでは欠かすことのできない手がかりになっていくことであろう。
このように、八坂神社で相次いで刊行された史料集は、八坂神社の中世および近世の歴史を新たに明らかにしていくものといえるわけだが、これに対して、清水寺で刊行された史料集は、おもに近世、江戸時代の清水寺成就院と成就院が支配した門前町の様子を明らかにしていくものといえる。
具体的には、2015年に刊行された『清水寺成就院日記』第一巻(法藏館)と16年に刊行された『清水寺成就院日記』第二巻(同上)の2冊がその史料集にあたる。これらはいずれも、江戸時代に成就院につかえていた俗人の役人たちが書きつづってきた日記だが、現在のところ、元禄7(1694)年から幕末の文久4(1864)年までのおよそ170年分が210冊におよぶ冊子として残されている。
今回、刊行されたのはその最初のほうであり、第一巻では、元禄7年から宝永2(1705)年まで、また、第二巻では、宝永3(1706)年から享保5(1720)年までである。今後ひきつづき刊行されていく予定ではあるが、今回刊行された江戸時代中期の記事からも、さまざまな興味深いことがらが読みとれる。
そのすべてを紹介するわけにはいかないが、今回の2冊できわだっていることがらといえば、なんといっても、清水寺本堂舞台からの飛び落ちについてであろう。「清水の舞台から飛び落ちる」といえば、重大な決意を固めるという意味で現在でも通用する言い回しとしてよく知られている。それが実際に江戸時代では行われていたことが、今回の2冊からだけでもかなりくわしく読みとれるのである。
このことは、歴史的な事実として重要であり、また興味深いといえるが、ただ、このような行為がけっして自殺を目的としたものではなく、清水観音への信仰にもとづいたものであったという点が読みとれる点も大事であろう。
人びとは、さまざまな願いをかかえ、そして本堂で7日間の参籠(お籠もり)をしたうえで舞台から飛び落ちた。運がよければ無傷、悪ければ命を落とすこともあったが、飛び落ちたあとの人びとのお世話をしていたのが、実は門前町の人びとであったことも知ることができる。今につながる清水寺と門前町との結びつきが江戸時代にまでさかのぼることも今回刊行された史料集からは明らかになるのである。