「節談説教」復活の意味と背景 ― 音声力、大衆性、平易さ評価(1/2ページ)
ジャーナリスト 田原由紀雄氏
真宗教団の取材を始めて40年近くになるが、近年の「節談説教」への関心の高まりには目を見張る。江戸時代以来隆盛を誇った節談が、なぜ、いったんは滅亡の淵に立たされ、今また注目を浴びているのか。取材の経緯をメモ風に記して節談盛衰の軌跡をたどり、その背景と意味を考えたい。
1977年のある日のこと。真宗大谷派宗務所出入りの業者の一人が「節談説教という珍しいお説教のテープを持っているから、よかったら聴かせてあげる。けど聴かせたことは内聞にしてほしい」と言い出した。事情がのみこめない私にその人がいうには「今の内局は節談が大嫌い。私が節談好きであることが幹部の耳に届くのはまずい」。口外しないことを約束して聴かせてもらったのは大谷派の名説教者祖父江省念師が語る「蓮如上人御一代記」の一節。浪花節を思わせる豊かな節、落語の人情噺を思わせるしんみりした語り……その面白さにびっくり仰天した。
世界大百科事典(平凡社)で節談説教の項をひいてみたら、「ことばに節(抑揚)をつけ、洗練された美声とジェスチャー(身ぶり)をもって演技的表出をとりながら聴衆の感覚に訴える詩的・劇的な情念の説教である。……日本の語り物や話芸の成立に強い影響を与えたが、仏教の近代化の中で衰退し、第2次大戦後一気に崩壊した。今では全国に数名の継承者が残存するのみである」とあった。
「いつか節談の盛衰について調べてみよう」と思ったが、日々の仕事に追われて果たせなかった。30年の時が流れた2007年の7月3日、「節談説教研究会」が東西本願寺の説教者8人を集めて東京の築地本願寺で開いた節談説教布教大会を取材した。前夜、説教者の一人は「これが最後の大会になるかもしれない」と話していたが、聴衆約2500人を集める盛況で西本願寺の大谷光真門主も姿を見せた。最後に高座にあがった第一人者廣陵兼純師の説教の迫力は圧倒的だった。
大会の成功に力を得た節談説教研究会はセミナーによる説教者の育成に着手。08年7月、浄土真宗本願寺派教学伝道研究センターが開いたシンポジウム「節談が伝える御法義」で節談の持つ「音声力」が高く評価されたことも節談復活の機運に弾みをつけた。
シンポジウムも取材したが節談衰退の事情はよくわからない。やっとたどりついたのは赤井達郎著『絵解きの系譜』(教育社刊、1989年)の中の次のような記述だった。
〈東本願寺は明治八年九月、「配紙」において「改正説教規則」を発表している。それによれば、説教は「人心ヲ感化シ性行ヲ善良ナラシムルヲ主」とするものであるから、「粗卒・猥雑・談笑ノ間ニ付シ以テ教効ヲ虚(うしな)」うようなことがあってはならないと説諭し、とくに「或ハ現今ノ時事ヲ説キ、或ハ仮説ノ譬喩ヲ用ルモ、言鄙俚ニ亘リ、態俳優ニ類スルノ如キハ」感化の用を失うだけではなく、「最モ教ヲ汚辱スルノ甚シキ者ナリ」と誠実懇篤な説教をもとめている。芸風の通俗的な節談説教を直接禁止したものではないが、「近代化」を願う本山にとって節談説教などは好ましいものではなく、この説教規則もひとつの力となって節談説教はしだいにおとろえ、「法話」「仏教講話」へと流れていく〉
東本願寺は明治を迎えて中央集権的な教団体制の確立をはかり、統一した教えの徹底を目指した。芸風で卑俗な私説に流れる危険をはらんだ節談は本山にとって不都合な存在だった。西本願寺も「譬喩因縁音節等ノ陋醜ニ渉ル」説教を禁じている。
節談排除の起点がわかったことは大きな前進で年配の説教者や門徒の取材を重ねた結果、節談の歩みが浮かび上がってきた。法話や仏教講話が教団公認の布教スタイルになった後も門徒大衆に熱烈に支持された節談の隆盛は続き、戦後も生き延びた。地方によって事情は異なるが、「続き因縁」といって説教者が10日間も毎晩、満堂の聴衆を前に因縁話を説き続けることも珍しくはなかった。
2010年、砺波郷土資料館(富山県砺波市)で開かれた「真宗の説教者たち」展の図録によると1955(昭和30)年ごろ、砺波地方には10の常設説教場があった。55年から60年までに砺波市出町の眞壽寺を訪れた説教者は、延べ230人。真宗王国北陸での説教の繁盛ぶりの一端がうかがえる。