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トップ> 涙骨賞受賞者一覧リスト> 第12回「涙骨賞」受賞論文 日本学術振興会特別研究員 栗田英彦氏
中外日報社主催第12回「涙骨賞」最優秀賞論文(要約)

本稿は中外日報社主催の第12回「涙骨賞」で最優秀賞を受賞した栗田英彦氏「岡田虎二郎の思想と実践―越境する歴史のなかで―」のダイジェストです。本紙掲載のため、原論文にあった注釈は全て省き、著者自身によって全体に大幅な改稿が行われています。上・下2回に分けて掲載します。

2016年5月25日付 中外日報

岡田虎二郎の思想と実践―越境する歴史のなかで(上)

日本学術振興会特別研究員 栗田英彦氏

くりた・ひでひこ氏=1978年、岐阜県生まれ。広島大理学部卒。コンピューター会社勤務を経て、東北大大学院文学研究科博士課程修了。同在籍中にハーバード・イェンチン研究所でビジティング・フェローを兼任。博士(文学)。専門は宗教学。現在は日本学術振興会特別研究員(PD)、愛知県立大非常勤講師。
はじめに

近年、北米でマインドフルネス瞑想と呼ばれる、呼吸や姿勢に意識を向けるエクササイズが流行し、ストレス軽減や集中力養成のため、心理療法や企業研修などに導入されている。もともと仏教瞑想やヨガなどからヒントを得たとされるが、その効果を心理学的に説明することで宗教的・文化的帰属意識を超えた応用を可能にしており、現在では日本でも関心が高まりつつある。

しかし、同様の実践は、すでに明治末から大正期の日本でも「心身修養法」と呼ばれて流行していた。岡田虎二郎(1872~1920)の創始した岡田式静坐法は、そのなかでも人気や影響の大きさの点で特に重要なものである。教師・大学生・将校・芸術家・政治家・実業家・華族など、実践者には都市中間層からエリート層に属する人々が多く、熱心な弟子に木下尚江や田中正造といった著名な社会運動家もいた。

心身修養法は一見すると坐禅にも似るが、主に体力養成や精神安定といった具体的な効能を主張し、より明示的に技法が示される点で異なる。岡田式静坐法でも、結核や神経衰弱を克服した体験談は枚挙にいとまがない。方法も次のようにはっきり示されている。

まず足を深く重ねて端坐し、臀部を後方に出しつつ、腰を立てて下腹部(丹田)に力を込める。手は親指を握って組み、膝に置く。上体は少し前に出して、肩、胸、みぞおちの力を抜いて、顎を引く。呼吸は鼻から行う。呼気は下腹部に力を込めながらゆっくり長く吐き、吸気は下腹に込めた力を緩めて自然に素早く入れる。

こうした技法の精密な指示が、師資相承の系譜や伝統的な意味づけを不要とし、雑誌や書籍を通じて普及できた理由でもある。岡田自身は一冊の著作も残さなかったが、弟子達の著述によって広く知られるようになった。宗教性を薄めて誰にでも実践可能な形でマニュアル化した点で現代のマインドフルネス瞑想の先駆ともいえる。

一方で、岡田虎二郎は「静坐の目的は何であるかと問ふならば、静坐に在りと答へる」と述べ、実用性を超えた側面を常に強調した。哲学者・鶴見俊輔も、「自分のしぜんのスタイルに根ざした生活美学」を知識人に与えた「思想運動」として、岡田式静坐法を評価する。思想であるならば、それは岡田の経験した社会的現実の反映であるはずである。果たして「自分のしぜんのスタイル」の内実はなんだったのだろうか。

身体技法史は、従来の教義や信仰中心の宗教史では見落とされてきたが、間歇的に繰り返される現代の国際的な瞑想ブームを歴史的に見直すためにも重要な視座である。こうした問題意識から、ここでは岡田虎二郎を思想史的に検討し、静坐法の生まれた背景を探る。

明治哲学の影響

明治5(1872)年、岡田は愛知県渥美郡田原町に、旧・田原藩士の次男として生まれる。身体は虚弱であり、最終学歴は中学校卒業相当であったが、生家の農業を手伝いながら在野の農業研究者として頭角を現し始めた。明治31年、農業研究の成果が認められ、渥美郡役所に農業主事として勤務するようになるが、2年後に県知事や上役と衝突して給料を削られる。これを期に、岡田は辞職して渡米。サンフランシスコを拠点に皿洗いや庭師をしながら語学を学び、しばしば識者や著名人を訪ねた。明治38(1905)年に帰国した後、岡田は静坐法の指導者として歩み始める。

渡米の5カ月後、岡田は弟に手紙を送る。そのなかでは科学万能主義や同時代の道徳教育への激烈な批判とともに、「あゝ宇宙の万象も微細にその基因するところを探究すれば、全く霊妙不可思議なる実在の発展に外ならず」という一節がある。岡田がここで探求すべしとする「実在」とはなんだろうか。

これは、当時流行した哲学用語であった。ある哲学者は、キリスト教の「ゴッド」、仏教の「如来」や「真如」、儒教の「天」、神道の「神」などもまた、つまるところ「実在」を示す観念だと考えた。それならば、それらは別々の言葉で表す必要はなく、すべて「実在」と考えればよい。こう主張したのが、東京帝国大学の哲学科教授・井上哲次郎(1855~1944)である。

井上は、明治26年、教育勅語を盾にキリスト教を批判し、大きな反響を巻き起こした国家主義者として知られている。ところが、その批判は単にキリスト教にのみ向けられたものではなかった。明治32年、井上は、将来の諸宗教が各々の特殊性を融合調和して、「科学思想」とも矛盾しない「唯一の普遍的宗教」へと変形していくはずだと論じた。それは、「人天合一」――各人の心に「実在」が内在すること――を説いて内的な倫理的動機づけを与える宗教(倫理的宗教)であるという。井上のねらいは、一方で、進化論や唯物論を超越する「実在」を説いて利己主義や虚無主義を抑制し、他方で、各宗教で異なる教義や実践を批判して諸宗教をより「普遍的」な道徳、差しあたっては国民道徳に一致させることにあった。

これには当然ながらキリスト者からも仏教者からも多くの反論が提出された。しかし、井上は主張のなかで、「実在」を個別の利害や情欲や認識に制約された「小我」に先立つゆえに「無限の大我」とも呼び、「人天合一」の境地を「無我」「寂然不動」「解脱」と表現していた。東洋思想、とりわけ仏教で用いられてきたこれらの用語は、特に禅系の仏教者には親和的なものであり、在家仏教者の加藤咄堂(1870~1949)は、坐禅こそ「大我」の声を聞く方法であり、禅宗こそ「将来の宗教」だと、禅宗の擁護と改革のために倫理的宗教論を利用した。

岡田も「真の無我とは小我を捨てゝ大我に一致すること」と述べており、明らかにこうした明治思潮に棹差していた。この点で、岡田と井上の立場は異なるものではない。しかし、渡米経験が、井上の「大我」とは異なった色彩を、岡田のそれに与えることとなる。

アメリカ思潮との交錯

在米中の岡田に最も大きな影響を与えたのはラルフ・W・エマーソン(1803~82)の思想だと言ってよい。岡田が肯定的に言及するスウェーデンボルグ、プラトン、ペスタロッチ、シェークスピア、ゲーテなどは、エマーソンもまた賞賛した人々だった。

トランセンデンタリズムと呼ばれるエマーソンの思想は、道徳の法則と一致するとされる自然の法則を把握するものとして経験諸科学の価値を受け入れつつ、キリスト教の特殊的な儀礼や教義を排して、人間の内面の深奥を霊化することで新たな宗教運動を起こす試みだった。聖書に限らず、プラトンやドイツ哲学からヴェーダなどの東洋哲学まで幅広く参照され、通宗教的・比較宗教学的な傾向も持っていた。

この点で、井上哲次郎の倫理的宗教と大きな違いはない。南北戦争前後の状況で、ヨーロッパの模倣をやめて、アメリカの文化的独立と道徳的統合を目指すエマーソンの思想的な戦略が、日本の国民道徳を模索する井上のそれと類似したともいえる。実際、これは偶然などではなく、井上の倫理的宗教そのものが、トランセンデンタリズムの影響を受けたフェリックス・アドラー(1851~1933)の倫理修養運動にヒントを得ていた。

一方、井上の「大我」が忠孝の人倫を肯定するのに対して、エマーソンは社会倫理以上に「自然」を通じた人間の訓育を主張した。ここに官立大学教授と在野の思想家の立場上の違い、あるいは伝統に接木しつつ国家主導で近代化を跛行する日本と新興国を樹立したアメリカとの社会的な違いも考慮できよう。

いずれにせよ、在野の思想家・農業研究者として、岡田虎二郎は道徳と自然を一体と見るエマーソンに共鳴した。これは「大我」を人倫ではなく自然として解釈する方向に進む。ここに岡田の「忠君愛国」批判の根拠があった。

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