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中国の天台仏教と日本の日蓮仏教 ― 同じ法華信仰、異なる立場

「法華仏教研究」編集長 花野充道氏

2017年5月31日付 中外日報(論)

はなの・じゅうどう氏=1950年、京都府生まれ。62年、日蓮正宗総本山大石寺で出家。81年、早稲田大大学院博士課程を修了。日蓮正宗無上寺、浄福寺、要言寺の住職を歴任。2009年、文学博士(早稲田大)。同年、僧籍を返上。現在、(中国)薬師文化研究所所長。主著に『天台本覚思想と日蓮教学』。

昨年11月17日から19日にかけて、中国陝西省の西安市(昔の長安の都)で「漢伝仏教祖庭文化国際シンポジウム」が開催された。世界各国から仏教関係者や研究者が約300人集まり、様々な討議が行われた。近年、中国では社会活動を推奨する「人間仏教」が高唱されていることもあり、法華思想を研究する私は、社会との関わりを重視する日蓮仏教と天台仏教とを対比して発表した。以下はその要旨である。

日蓮は「インドの釈迦、中国の天台、日本の伝教から相承を受けて、末法に法華仏教を弘める」(『顕仏未来記』)と述べている。しかし、日蓮の法華仏教と天台の法華仏教は全く異なっている。天台は仏教正統の止観の修行によって悟りを求める仏教である。ところが日蓮は、日本に称名念仏を弘めた法然の浄土教をふまえて、唱題によって救われる(仏果を譲与される)仏教を打ち立てた。智顗が円教至上主義に立つのに対して、日蓮は法華経至上主義に立っている。

智顗は蔵・通・別・円の四教を分別し、真理に「円理」と「偏理」を立てて、諸経の円教に説かれる円理は「円体無殊」であると論ずる。方便の権教に説かれる「偏理」とは、一方に偏った不完全な理という意味で、我執に基づいて正義と邪義とを分別するから諍いが起こる。対して実教に説かれる「円理」とは、円満で完全な理という意味で、無分別の智に基づいて正邪一如の実相(空)に住するから諍いが起こらない。これが天台仏教の論理である。

対して日蓮は、法華経の「正直捨方便、但説無上道」の文を振りかざして、華厳・阿含・方等・般若の爾前経を「方便の権経」として批判し、諸宗を攻撃する。たび重なる天変地異によって、民衆が苦しみに喘いでいるのは、日本に謗法が充満しているからである。日本国の謗法は、爾前の円と法華の円が一つという義(円体無殊)から始まっている。権実・正邪の差別をきちんと分別し、謗法の悪法を捨てて正法の法華経(正義)を立てれば、天下泰平・国土安穏が実現する。これが日蓮の立正安国の論理である。

智顗は『法華玄義』巻九上に、「蔵教は色を滅して真に通ず。当体即空を得ないから諍いが多い。通教は色に即して真に通じ、人に諍い無き法を示す。別教は次第に色を滅して中に通ず。当体即中を得ないから諍いが多い。円教は色に即して中に通じ、人に諍い無き法を示す」(取意)と論ずる。蔵教(析空観)と別教(次第三観)は、相対分別の観を修するから諍いが起こるが、通教(体空観)と円教(一心三観)は、絶対無分別の観を修するから諍いが起こらない。

また智顗は『法華玄義』巻九上に、「法華は折伏して、権門の理を破す。涅槃は摂受して、更に権門を許す」と論ずる。涅槃経は捃拾教であるから、権教を用いて衆生を救う摂受の教である。対して法華経は、正直捨方便の純円教であるから、権門の理を破す折伏の教である。

ここで智顗は、「法華は折伏して、権門の分別の理を破す」と述べて、諸法実相(大乗空・無分別)の立場から、正邪・善悪を分別して諍っている仏教者の我執を批判している。ところが日蓮は、同じ「法華折伏、破権門理」の文を掲げながら、智顗と全く反対に、正邪・善悪を分別して邪法・悪法の諸宗を攻撃せよ、と言っている。

「末法の世は、人々が正法に背き、邪法に帰依しているので、国土に悪鬼が入り込み、三災七難を引き起こしている。日蓮は釈尊の命令に従って、経文の通りに、権教の諸経と実教の法華経との戦さを起こし、八宗・十宗の敵人を攻撃した。しかし敵は多く、味方は少ないために、いつまでも戦いが止むことはない。『法華折伏、破権門理』の金言に従って、権教権門の人々を一人も残らず攻め落として、釈尊の家来となし、天下万民が悉く一仏乗に帰依して、南無妙法蓮華経と唱えたならば、国は羲農の世となって栄え、人は災難を払って長寿を得るであろう」(『如説修行抄』)

智顗は、相対差別の偏理(権門の理)に執するから諍いが起こるのであって、絶対平等の円理を悟れば諍いは息む、と論じている。対して日蓮は、権実雑乱の時は権実の戦さを起こして、権教の邪義(権門の理)を折伏せよ、と安国のための諍いを主張している。大乗空の絶対世界に住して、我執による諍いを批判する仏教者智顗。善悪の相対世界に住して、安国のために闘う仏教者日蓮。同じ法華仏教でも全く異なっている。

智顗のように一心三観を修して、円融不二の円理に住しているだけでは、現実の矛盾は何も解決できない。現実は国家に三災七難が起こり、民衆は塗炭の苦しみに喘いでいるではないか。それを仏教者は見て見ぬふりをするのか。世俗から離れて、自分だけ仏道を行じていればよいのか。円体無殊の教義に起因する権実・正邪の混乱によって、国土に謗法が充満し、それによって災難が頻発しているのだから、権実の戦さを起こして正邪を決し、我此土安穏の仏国土を成就することこそ、大乗菩薩の使命である。

日蓮は、法華経を受持すればすべての人の成仏が叶うように、国家が法華一乗の正法を受持すれば(立正)、国家の成仏が叶う(安国)と考えた。仏教は民衆にあきらめを説く教えではない。現実の苦難に目をつぶり、観念の世界に逃避することを教えるものではない。仏教が現実の人間の苦悩に対して、無力であっては意味がない。日蓮は、仏教に息災延命・国家安穏の力用がなければ正法とは言えない、という信念に立っていたのである。これは近代になって、中国で提唱された「人間仏教」に一脈通ずる思想である。

このような日蓮仏教は、現実から逃避しない、浄土を他土に求めない、成仏を来世に設定しない。今、ここにいる自分が、社会の中でどのように生きるかを問う仏教であるから、非常に実存主義的である。現実の矛盾・不幸・宿業とどう向き合っていくか、俗世間の政治とどう関わり合っていくか。日蓮の立正安国の思想は、旧仏教の鎮護国家の思想的系譜上にあるにもかかわらず、旧仏教が権力の庇護のもとに、王法と仏法の共栄をはかったのに対して、日蓮は権力と対決してでも、安国(仏国土)を実現すべく、忘己利他の大乗菩薩行を実践した。権力の弾圧に耐えて、理想社会の実現のために粉骨砕身する生き方は、共産主義の革命思想に通ずるものがある。

近代の日蓮主義者には、王仏冥合の国体主義(天皇制)を宣揚する右翼思想家とともに、富める者の支配から貧しい者を解放して、平等な社会(ユートピア)を実現すべく、権力と戦った左翼思想家まで含まれているのは、そのためである。このような日蓮仏教の特異性(好戦的な教義)をプラス評価するか、マイナス評価するかは、意見の分かれるところであろう。

仏教が世俗(国家権力)とどのように関わり合っていくべきか。これは非常に難しい問題である。現在の日本において、日蓮仏教教団の一つ(創価学会)の政治活動(公明党)に批判が集まりがちであるが、政策の是非は別として、これは日蓮仏教から必然的に展開する菩薩行の一つのあり方である。ただし今日、公明党が政権批判の野党から政権与党へと転出した以上、権力や矛盾と闘うスタンスを保持できるがどうかが課題である。

闘いを好まず、和を尊んで、仏教を個人の内面に閉じ込める傾向の強い日本仏教が、最近になって、原子力発電反対の決議をしたり、安全保障関連法案反対の大衆運動を起こしたり、政治家へのはたらきかけを強めたりしている。この国土に平和と安穏を実現するために、抵抗勢力とどのように闘うか。あるいは国家権力(政治)にどのようなアプローチをすべきか。現今の日本の仏教界では、進歩的な人々によって真剣な討議が行われている。

中国の仏教者にとっても、問題意識は同じであると思う。人類の一員の自覚に立って、世界の平和と人類の繁栄のために何ができるか。また何をなさねばならないのか。共産党政権下の中国において、政治権力と宗教の関係はいかにあるべきか。仏教者が社会の矛盾を是正して、いかに民衆の幸福と国家の発展に貢献すべきか。このような人類共通の課題に対して、日本と中国の仏教者が一緒になって討議する必要性を痛感している。