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増上寺第36世祐天上人300年御遠忌に寄せて

浄土宗祐天寺住職 巖谷勝正氏

2017年4月21日付 中外日報(論)

いわや・しょうじょう氏=1959年、東京都生まれ。宇都宮大で工学修士取得後、化学系企業に就職。退職後、大正大に編入学し、浄土宗大本山増上寺で伝宗伝戒を相承。97年、大正大文学研究科博士課程満期退学。98年から浄土宗祐天寺(東京都目黒区)住職。2012年から大本山増上寺執事。「顕譽祐天の伝記について」『大正大学研究論集19』など祐天上人関係の論文多数。02年から『祐天寺史資料集』を発行。
名号の書写

祐天上人と言えば、南の字を丸く弥の弓偏と陁(陀の俗字)の也の終筆を伸ばす独特の「南無阿弥陁佛」の六字名号が有名である。その名号を持つことで江戸の庶民をはじめ多くの人々が利益を被ったとの話が残る。『祐天大僧正利益記』(文化5〈1808〉年)などにまとめられた利益は、「死霊得脱」「火難除け」「水難除け」「刀難除け」「安産」など多岐にわたる。もちろんその中には往生譚も含まれるが、多くの利益がもたらされた。なぜ、祐天上人は名号を大量に書写するようになったのか。それは東大寺大勧進に協力するためというのが大きな理由であった。

祐天上人は、貞享3(1686)年、50歳頃に京洛や畿内の名刹を歴訪し、そのとき目にしたのが東大寺大仏の尊像が雨露に侵されている姿であった。堂宇再建の時には必ず力になるとの思いを強くして江戸に戻った祐天上人は、牛島に草庵を結んだ。貞享4(1687)年から公慶上人による東大寺再建の大勧進が始まり、江戸にも勧進所が設けられた。祐天上人が勧進所に協力を申し出たところ、金子よりも名号を所望され、そこに大量の名号を持ち込むことになったのである。それとは別に、祐天上人は請われるままに名号を書写しては人々に授けていた。その名号の利益は江戸中の噂になり、いつしか江戸幕府第五代将軍徳川綱吉生母桂昌院の耳に入った。

桂昌院の帰依と檀林生実大巌寺入住

元禄8(1695)年から祐天上人は桂昌院に呼ばれ、増上寺で法談するようになった。桂昌院は「念仏は下人の唱えもの」という疑念を払拭し、祐天上人に帰依した。ついに元禄12(1699)年、桂昌院の進言により綱吉の台命が発せられ、祐天上人は檀林生実(現、千葉市)大巌寺の住職となった。

このとき、牛島の人々は「祐天上人の出世によって身近に教導を受けられなくなる」と、せめてその姿を残そうと寿像を作り、また、帰依者であり祐天上人開闢の常念仏を自身の菩提寺で始めた松坂の商人はお祝いを贈った。

綱吉との法問

その後、祐天上人は飯沼(現、茨城県常総市)弘経寺住職を経て小石川伝通院の住職となった。江戸の檀林主となり、綱吉の法問の席に呼ばれることが多くなった。綱吉は祐天上人に問い掛けた。「祐天上人の名号の験益が最も多いと世間の人は言うがその実否いかん」。祐天上人は明解に答え、信頼を得た。その証拠は、富士山が宝永の大噴火を起こしたときの出来事でわかる。富士山の噴火の吉凶を諸宗の僧侶に問い掛けたとき、ひとり祐天上人は綱吉を諫めた。「砂は下にあるもの、それが上から降るのは逆さまである。上に生類を憐れみ、人々を苦しめるのも逆さまである」と。綱吉はこの言葉に翌日褒美をくだされた。

綱吉を継いだ六代将軍家宣は祐天上人に増上寺住職を命じ、その日に大僧正に任じた。同日に大僧正となるのは祐天上人から始まった。

大奥の帰依

桂昌院の帰依の影響は、徳川家の多くの女性をはじめ諸大名家にまで及んだ。病弱であった綱吉息女明信院は自ら描いた弥陀三尊に祐天上人から名号を授かり、綱吉側室瑞春院は祐天上人の説法の姿を写して寿像を作り、桂昌院の臨終には祐天上人が臨終行儀を勤めた。家宣正室天英院、七代家継生母月光院、綱吉養女で島津継豊に嫁いだ浄岸院らは祐天上人遷化後も関係をつないだ女性たちである。

皇族の帰依

知恩院門跡尊統法親王が、伝通院住職であった祐天上人を訪ねて名号を請い受けたことがあった。宝永7(1710)年のことで、所望したのは東山天皇の女院承秋門院である。おそらくは前年に崩御した東山天皇の菩提を弔うためではなかったか。尊統法親王と承秋門院は姉弟であり、後に祐天上人は承秋門院に請われ、血脈と法名を授けた。

原点は累の死霊得脱

祐天上人は庶民から篤い信仰を寄せられ、将軍家、大名家、皇族に至る人々から帰依を受けた高僧である。一方で、祐天上人を称して「江戸の悪霊祓い師」という人もいる。祐天上人の名の広がりは名号信仰から始まったわけではなかった。その教化の原点は、祐天上人36歳(寛文12〈1672〉年)のときに遡る。祐天上人は師僧である檀通上人の随身衆の一人として飯沼弘経寺にいた。事件は起こった。菊という女性が半狂乱となり、あらぬ事を口走るようになったのである。さまざまな祈祷を頼るが容態は悪化し、村人たちが弘経寺を頼って来た。その菊を念仏で済くったのが祐天上人であった。菊の狂乱の原因は、菊の父与右衛門が殺した前妻累の死霊だったという。この話を最初に世に紹介したのは『古今犬著聞集』(貞享元年)であり、後に『死霊解脱物語聞書』という版本が元禄3(1690)年に開版された。貞享年間にはすでに祐天という名は広まっており、このことが影響して名号信仰へとつながっていったのである。

歌舞伎から小説、落語、講談そして映画へ

祐天上人の名は、その実像とは裏腹に日本文化に大きな影響を与えた。「死霊解脱」という言葉が表すように歌舞伎では祐天上人遷化13年後にはすでに怪談物として上演された。この累物は「伊達競阿国戯場」(安永7〈1778〉年)、「阿国御前化粧鏡」(文化6〈1809〉年)、「法懸松成田利剣」(文政6〈1823〉年)と一系統を築き現在まで上演され続けている。大正15(1926)年に歌舞伎役者らによって祐天寺に建立された「かさね塚」には今も参詣者が絶えない。

読み物には、宝暦13(1763)年に成立した『祐天大僧正御伝記』がある。この本はすべて写本であるが今でも多数出回っている。版本では、『祐天上人一代記』(享和3〈1803〉年)や曲亭馬琴の『新累解脱物語』(文化4〈1807〉年)がある。現在も、松浦だるまによる漫画『累』(講談社)が発刊されている。

話芸の世界では、落語家二代目三遊亭圓生が「怪談累草紙」、三遊亭圓朝が「真景累ヶ淵」を作り口演し、現在でも桂歌丸や林家正雀らによって受け継がれている。講談では、廃仏毀釈後に高僧の出現を望む世相の中、好んで高僧伝が演じられ、祐天上人の伝記は七代目一龍斎貞山や桃川桂玉らが語り、現在でも一龍斎貞花らが取り上げている。

近年、累物は映画化され、「怪談累ヶ淵」(1957年)、「怪談」(2007年)が上映された。

このように、祐天の名や累済度という出来事は現在に至るまで日本文化の中に息づいているのである。

建立され続ける名号石塔

一方で、祐天上人の名号に対する信仰は根強いものがある。それは祐天上人の名号を刻んだ石塔が建立され続けていることからも分かる。現在、北は青森県、西は福江島(長崎県)まで全国各地に祐天上人の名号石塔が確認されており、その数は250基に上る。その建立意趣は、三界万霊供養・災害物故者回向・廻国供養・常念仏回向・念仏講中回向などさまざまであり、建立年代も元禄4(1691)年から現代に至る。これによって祐天上人の名号信仰の広がりと息の長さを確認することができる。

そして今

祐天上人は江戸時代における念仏の事実上の中興主である。なぜなら民衆の信仰を念仏に向け、多くの地域に常念仏を広め、祐天上人の名号を中心に念仏講が勤められた。また、寛永寺に傾いた徳川家菩提寺の地位を増上寺に引き戻したのも祐天上人である。100回忌のときには歌舞伎の上演や『利益記』の刊行により信仰が再燃し、名号石塔がさまざまな形で建立された。200回忌のときは講談で取り上げられてきた時代と重なる。300回忌の今、再び世の中に念仏による真の救済を伝えることが上人に対する誠の報恩行であることを述べてまとめとしたい。