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本願寺宗法と明治憲法 ― 近代日本の宗教≪6≫

龍谷大名誉教授 平野武氏

2017年3月10日付 中外日報(論)

ひらの・たけし氏=1944年、中国大連市生まれ。龍谷大教授を経て現在、同大名誉教授(憲法、宗教法)。博士(法学、大阪大)。前宗教法学会理事長。

1889(明治22)年に制定された明治憲法(大日本帝国憲法)については、それが非西洋世界で初めて議会制を導入したことからこれを高く評価する向きもある。しかし一方では自由民権運動を抑圧し、もっぱら政府の手で制定されたことからその反動性を強調する見解がある。

明治憲法が英仏流の立憲主義・民主主義を排除し、近代化が遅れ君主の権力が温存されたドイツ・プロイセン的立憲主義を採用したことは周知のところである。そこでの議会の権限は限定的であったことから明治憲法の立憲主義は「外見的立憲主義」と呼ばれることもある。

明治憲法に対する評価に関わることにもなるが、ここでは明治憲法に比して時期的にも内容的にも先進的な「憲法」が本願寺派(西本願寺)で制定されたという事実を紹介したい。その「憲法」とは本願寺寺法のことであり、1880(明治13)年に制定された(政府により承認されたのは翌年)。

本願寺寺法というが宗派の法であり、宗派の組織運営に関わる宗法である(教義に関わる部分は明治19年に「宗制」として制定され、宗制・宗法体制が成立する)。そのような本願寺寺法の制定の経緯と内容について顧みることは憲法をめぐる議論が盛んになっている今日、大きな意味があるように思われる。

本願寺寺法の制定には教団改革がきっかけになった。明治政府の宗教政策は混乱しているが、仏教教団は幕藩体制下の国教的地位を剝奪され、神仏分離令、廃仏毀釈運動等の中で大きな打撃を受けた。西洋列強との関係から切支丹(キリスト教)禁制も解かれた。仏教教団の改革は必至であったが、本願寺派は改革をめぐって大きな混乱を経験する。

長州出身で教団改革を進めていた島地黙雷らを中心にするグループと法主により擁立された北畠道龍(紀州出身で長州と戦った経験がある)らが対立したのである。法主は宗政の主導権を握った島地らの改革が法主の伝統的な権限を脅かすと考え、宗政事務所を京都から東京に移転し、島地らの運動を阻止しようとするが、これに反発する動きも激しくなる。本願寺派の分断は深刻な状況にあった。

国政レベルでは1874(明治7)年には板垣退助らによって愛国公党が結成され、民撰議院設立建白書が政府に提出されている。翌年には愛国社が結成される。同年、大阪会議(下野していた板垣や木戸孝允らを政府に復帰させることになった)を受けて立憲政体樹立の詔勅が出されており、政府も憲法制定について検討を始めていた。政府内部では新たに設置された元老院で憲法草案が審議される(ただし元老院がまとめた憲法草案はすべて不採用になった)。

民間では民権運動が高揚していた。民権運動は立志社の建白書(明治10年)に見られるように、地租軽減、条約改正とともに国会開設と憲法制定を要求していた。政府はこのような運動に危機感をもち、その拡大を抑えるのに苦慮していた。

そのような状況下、政府は社会的に大きな影響力を有していた本願寺派の混乱について関心を寄せざるをえなかった。政府の要人たちは本願寺派に対し助言や介入を試みる。政府は法主に東京の宗政事務所を閉鎖し京都へ戻るように説得している。

政府にとって特に本願寺派の動きが民権運動と結びつくことは見逃すことができなかった。周知の通り、民権運動は国会の開設と憲法制定を求めて各方面に展開していたが、宗教団体にもそれに呼応する動きが出てくることは政府にとって大いに警戒するところであった。

政府の説得を受け入れ、結局、法主は京都へ戻る。そして法主は島地と北畠の両者を退け新たな体制の樹立の方向へ舵を取るが、宗派内の融和を生み出すためには多くの末寺を教団運営に参加させ本願寺を「共有」する意識をもたせる必要があった。それは末寺の僧侶の代表が参加する「議会」としての集会(しゅうえ)の導入という形をとる。

集会の制度やそれとの関係で法主の地位・権限をどのように位置づけるか、本願寺と末寺の関係をどのようにするかが大きな問題となった。その中で宗派の「憲法」である寺法の制定が懸案となったのである。寺法起草の中心になったのは赤松連城であったが、政府も起草に深く関与し、社寺局長であった桜井能監に起草に参加させた。寺法草案は実質的には赤松と桜井の共同作業によってつくられたといってよい。

政府は特に議会・議院や憲法という語が使用されることに神経を使った。これらの言葉は様々な方面に広がりを見せていた民権運動を刺激するように思われたからである。

民権運動の展開を受けて各地に様々な政治結社、啓蒙団体、学習団体が設置されていた。そのような団体のひとつに「共存同衆」がある。「共存同衆」はイギリス留学から帰国した小野梓らによって1874(明治7)年に設立された団体であり、活発に講演や啓蒙活動を行っていた。小野は政府内の憲法草案としては先進的なものであった(それゆえに採用されなかった)いわゆる元老院草案に関わった経験もある。小野は政府内の「民権派」とでもいうべき存在であった。

本願寺派でも寺法起草の中心となった赤松は「共存同衆」の設立に関わっている(島地もまたその会員であった)。当時の社会状況の中で本願寺派が民権運動から一定の影響を受けたことは否定できないが、とりわけ共存同衆の思想は本願寺派内で大きな影響力をもっていたと考えられる。

政府の介入もあり、憲法や議院という言葉は結局採用されなかった。赤松はこれらの語が民権運動の「前案内」のように見えるおそれがあったからと説明しているが、これは政府の思いを慮っての発言であろう。逆説的であるが、そのことから民権運動の広がりとその影響力の大きさを改めて確認することができるのである。

明治憲法は政府の弾圧・抑圧による民権運動の衰退後に成立したのであり、本願寺寺法より内容において立憲的・民主的ではなくなっている。民権運動の高揚期に制定されたからこそ寺法は先進的な内容をもちえたと考えられるのである。寺法草案が審議された「寺法編制会議」の議論も興味深いものがあるが、ここでは触れる余裕はない。

成立した寺法の内容について少しばかり紹介すれば、集会は一院制(ただし末寺から選出される総代会衆と法主が選ぶ特選会衆が存在する)の立法機関とされた(明治憲法では立法権は天皇に属し、衆議院――厳しい制限選挙の下にあった――と貴族院の二院からなる議会は立法を協賛する機関とされた。また天皇は一定の条件の下、議会の協賛を経ないで緊急勅令や独立命令を発することができた)。寺法では、執行(国政レベルでの内閣総理大臣に相当)は集会の「公認」により任免され、集会に責任を負う(集会よって規督され黜罰される)とされた(一種の議院内閣制である、明治憲法では「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」とするが規定上は議院内閣制を採用していない)。

司法権については寺法では規定するところはない。また明治憲法では臣民の権利について法律の範囲内で保障していたが、寺法ではそれに相当する規定はない。当然のことながら寺法には軍に関する規定もない。

政府の干渉により憲法や議院の語は採用されなかったが、統治の機構に関しては明治憲法に比べて寺法の先進性は明らかである。宗教界にも進取の気性をもつ先人がいたのである。我々はそのような自負すべき歴史をもっているのである。

もちろん今日は当時とは歴史的条件は異なる。しかしそのことを踏まえても歴史から学びうることはあろう。また宗教の出世間性、彼岸性を強調し、宗教と国家は異なる次元に属しており、両者を比較したりその関係を考えたりすることは意味がないとする考えもあろう。しかし実際は社会の中で存在する限り宗教団体の「法」は国家の法と何らかの関係をもたざるをえない。

今日、多くの教団では「議会制」を導入している。民主的な組織運営という社会的要請を無視しえないからである。教義や伝統と折り合いをつけながらも時代の要請に応え、さらに改革を進めることもありえよう。本願寺寺法についてその歴史を顧みることは今一度自分たちの立ち位置を考えることに資するであろう。