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涅槃会に寄せて 長谷川等伯筆涅槃図

曹洞宗龍昌寺住職 竹林史博氏

2017年2月17日付 中外日報(論)

たけばやし・しはく氏=1949年、山口県生まれ。曹洞宗龍昌寺住職。涅槃図研究の嚆矢で、20年以上前から研究を始めた。全国の涅槃図を調査し、登場人物の特定に努めている。全国で絵解きを行い、月刊『大法輪』でこの時期に毎年、涅槃図を解説している。著書に『よくわかる絵解き涅槃図』『曹洞宗百家の逸話―近現代篇』など。

かつての涅槃図研究の権威、中野玄三博士は『日本の美術〔268〕涅槃図』の中で、「能登地方には、右手枕した釈迦、摩耶夫人の飛来を描いた(等伯筆本法寺本とは)別系統の長谷川派の涅槃図が数点伝わっている」と述べているが、「長谷川等伯ふるさと調査」(石川県七尾市・石川県七尾美術館)の5年がかりの調査の結果、15幅が確認された。長谷川派の作品は、等伯の妙成寺本(同県羽咋市)を忠実に模写したもので、一見してすぐにそれと知れる。

室町時代はともかく、江戸時代になると兆殿司の東福寺本が絶大な人気を誇り、これを主流とする構図の定型化が進む。その中で、鎌倉時代の南都奈良で流行した構図を色濃く残す等伯作品を、江戸時代にもなおかたくなに墨守する長谷川派の作品は、注目に価しよう。ここに、地方で製作される涅槃図の一典型例を見ることができるからである。

しかし、おもしろいことに等伯自身は京に上り、その辺の事情に精通、晩年京都本法寺に奉納した作品では、一転して兆殿司の構図をほぼそのまま踏襲しているのである。

◆宝床表現のこだわり

前述のように等伯は、30歳では奈良型、晩年61歳では明兆(兆殿司)型と極端に構図を変えているが、不思議なことに、1カ所のみ、2幅とも同じ構図で描かれている箇所がある。それは釈尊が頭北面西右脇臥の姿で横たわっておられる宝床表面のモザイク紋様である。明兆型では、通常ここは経典の記述通りにお袈裟が敷かれた形となる。

つまり、等伯は晩年、明兆型を描きながら宝床のみは頑として奈良型表現を譲らなかったのである。ここに等伯の強いこだわりを感じないわけにはいかない。おそらく、この宝床表現に、等伯の涅槃図に込めた思いが凝縮されているにちがいない。それでは一体、このモザイク紋様は何を表しているのであろう。

◆「法華経本尊曼荼羅図」との類似

調べてみると、この宝床表現は京都の妙傳寺所蔵等伯筆「法華経本尊曼荼羅図」の背景紋様と酷似していた。この背景部分について2010年の等伯没後400年の大回顧展図録に、「画面全体に金泥で区画された緑の石畳地が引かれている。この背景には諸尊や神が立っている床なのか、背景の壁なのか判然としない」(『長谷川等伯』東京国立博物館)とある。しかし、本図は法華経本尊の在す世界、即ち法華浄土が描かれた作品である。浄土の床は単なる石畳ではなく、瑠璃地に決まっている。

『観無量寿経』の中に「宝地観」があり、この三昧行が成就すると瑠璃地を感得する。近代の念仏三昧発得の高僧弁栄聖者に『十六観想』の図集がある。集中「瑠璃宝地」図は、弁栄聖者感得の世界が、等伯の宝床紋様とそっくり同じ紋様で描かれている。こうした瑠璃地表現は元来、当麻曼荼羅等の浄土曼荼羅の地面の表現法として成立したもので、鎌倉時代に南都奈良の絵仏師が涅槃図の宝床部分に応用したものと思われる。等伯作品は、その系統なのである。

さて、ここまで判明すると、等伯の宝床へのこだわりの理由が見えてくる。

◆「非滅現滅」

「特に信春(等伯の本名)は、生家の奥村家、養子先の染色業であった長谷川家がともに熱烈な法華経信者、日蓮宗の家柄であり、信春時代の作品も日蓮宗関係の仏画、宗教画が大部分を占めている」(長谷川等伯ふるさと調査団長嶋崎丞氏〈『北國新聞朝刊2010年7月22日』〉)とある如く、等伯は「熱烈」な法華信者の家柄である。

法華経の真精神からすれば、沙羅双樹の林で入涅槃された釈尊は、肉身の迹門の釈尊ではなく、本門の久遠実成の釈尊でなければならない。したがって宝床の瑠璃地表現は、その上に横臥される釈尊が法華浄土に在す久遠実成の仏であることを示す最も端的な表現であった、ということになる。本法寺本の裱背墨書銘に、「南無久遠実成非滅現滅釈迦牟尼如来」とあることが、何よりも雄弁にそのことを物語っていよう。「非滅現滅」の一句は、七尾市の長谷川家菩提寺長寿寺本堂の日蓮聖人一代記絵図の「聖人ご入滅」の場面に「非滅現滅」の説明が付されているのを見て、日蓮宗ではよく知られた表現であることを知った。

こうしてみると、等伯こだわりの宝床の瑠璃地表現は、この世の出来事である沙羅双樹下の釈尊入滅の場面を、久遠実成の法華浄土へと一大転回させる大切な舞台装置だったことが分かる。だから法華信者の等伯としては、どうしてもはずせない箇所だったのである。

◆「等伯の自画像」説は本当か?

数年前発行の等伯涅槃図(妙成寺本)の絵解き解説書に、画面左下の両手を前に差し出す人物を「等伯の自画像」としてあった。そういえば直木賞の安部龍太郎著『等伯』(日経新聞出版社・2012年)にも、これは本法寺本の同じ位置の人物を、等伯の自画像としてストーリーが展開していた。いずれも話としては興味深いが、本当だろうか?

一般に等伯作品といえば、構図も彩色も一切が一品もののオリジナル作品と思われがちだが、涅槃図製作には粉本(手本の原画)がある。妙成寺本の粉本は養祖父の無分作の涅槃図、だからこの2幅を比べれば、自画像かどうかは直ちに判明する。

幸いにも去年10月、七尾市の「山の寺の日」に、等伯と無分の直筆2幅を同時公開する講演会があり、講師に呼ばれた。会場で皆さんと一緒に拝観したのだが、無分作品にも同じ人物が描かれており、等伯はそれを忠実に写し取っただけと分かった。自画像ではなかったのである。

◆描き忘れた捧飯

では、この謎の人物は誰か? これは無分作品からは分からない。そこで筆者は数年前に発見した無分作の粉本と思われる鎌倉時代の涅槃図写真を持参、一同に披露した。その古画ではこの謎の人物が差し出す両手に御飯を山盛りにした鉢が描かれている。つまり、この人物はキノコ料理を供養した「捧飯の純陀」であったのだ。

あろうことか無分爺さんは、差し出した両手までは描き写したのだが、この大切な捧飯の鉢を描き忘れてしまったのだ。それをそのまま等伯が写し取ったため、四百数十年後の今日、とんだ誤解を引き起こした――というのがことの顛末である。分かってみれば他愛もないことだが、絵解きの話題の一つくらいにはなりそうな話である。

現在、この古画は京都の個人所蔵である。『等伯画説』に、能阿弥の鶴図について「この鶴を(京都で)等伯祖父は被見たりと」とあるくらいだから、無分は幾度も京都間を往来し、涅槃図の古画を目にする機会があったものと思われる。当時は七尾が繁栄を極めた時代であった。

また等伯苦心の宝床表現と同じ構図の奈良型涅槃図も、少数派ながら全国各地に残されている。涅槃会で涅槃図を拝観することがあれば、一つこの宝床に注目してみるのも一興であろう。もしうまく見つかれば、拝観の楽しみが倍増すること請け合いである。