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初詣における改憲署名と「天皇陛下お言葉」

千葉大大学院人文社会科学研究科教授 小林正弥氏

2017年1月1日付 中外日報(論)

こばやし・まさや氏=1963年、東京都生まれ。東京大法学部卒、同大助手、ケンブリッジ大客員研究員、千葉大教授などを歴任。千葉大地球環境福祉研究センター長。専門は政治哲学、公共哲学、比較政治。NHKの「ハーバード白熱教室」では解説を務めた。日本ポジティブサイコロジー医学会理事。
新年に考える「神社と政治」―日本会議における旧「国体」回帰願望

初詣に出かけて新年を寿ぐ時を迎えた。多くの人々は政治的な争いとは無関係の楽しい気分で過ごしたいだろう。ところが2016年の正月に一部の神社で改憲署名のブースが出されたので、ネット上などで違和感が表明された。この正月にも再び同じ感想を抱く人が現れるかもしれない。

この出来事は、それを契機に筆者が執筆した『神社と政治』(角川新書)という本の主題が大問題となる先ぶれのようなものだった。参議院選挙で衆参両院において改憲の発議が可能な状況になり、政権の支持基盤として日本会議や神道政治連盟などの宗教右派が注目を集めるようになったからである。

日本会議などでは国柄に即した改憲を主張しているが、神道界の内部の発行物には「国柄、すなわち国体」という表現がしばしば見られる。「神武天皇」以来の「国体」の回復という願いがここには込められている。日本会議などへの批判が激しい調子になりがちなのは、このためだ。このような言説が間違いとは必ずしも言えない。戦前のような古い国体、つまり「旧国体」の護持ないし回復を願っている人がいるからだ。実際に生前退位問題についての議論でも、有識者会議のヒアリングなどで右派論客たちは、「国体」の護持のために生前退位やそのための皇室典範の改正に基本的に反対した。

これに対して日本会議結成の原動力の一つだった「生長の家」では、初代総裁の明治憲法復元論を放棄し、政治活動は中止され、三代目総裁に至っては大きな路線転換がなされた。エコロジー的平和主義へと変わり、夏の参院選では立憲主義の観点から与党を支持しないということを公言した。

神道にはそもそも多様性があり、神社界には国民主権を前提にしながら改憲を主張する人もいる。ただ神社神道においては思想的転換が全体としてはいまだ明確にはなされていない。だからその改憲論が「戦前回帰」(山崎雅弘・戦史・現代史研究家)を目標にしていると批判されても、やむを得ないだろう。

象徴天皇の「お務め」という「まつりごと」

この状況に対して、生前退位に関する現天皇のメッセージは大きな問題を思想的に提起するものだった。この「象徴としてのお務めについての天皇陛下のお言葉」の主題は「天皇の務め」である。国体論では「まつりごと」とは祭政一致を意味するとされているが、元来は「奉仕すること」という意味であって、政治でも祭事でも奉仕することが「まつりごと」であると考えうる。つまり同一人物が「政治」と「祭事」を行う必要はなく、政治と祭事は分かれていても、それぞれの領域で真剣にその人の職務、つまり「務め」を果たして奉仕することが「まつりごと」の本義なのである。

メッセージにおける「天皇の務め」についての考え方は、まさに「奉仕すること」としての「まつりごと」そのものである。だからこそ「お務め」を果たすことは大事であり、その「まつりごと=奉仕すること=お務め」ができなくなったら退位すべきである、ということになる。この点は非常に重要だ。この「お言葉」は国体論のような祭政一致の考え方ではなくて、祭政が分かれた上での「まつりごと=務め」という考え方に立脚しているからだ。

しかも「天皇の務め」として「何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて」きたとされ、巡幸によって「その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々」があるという「認識」が、「天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務め」を「人々への深い信頼と敬愛をもって」なし得るようにしたという。最重要とされているのは「祈り」であり、伝統的な皇室祭祀も含まれるだろう。その「祈り」が巡幸によって深められたという。天皇の「祈り」のためにも巡幸には意義があり、この双方の「お務め」が共に相互補完的に公共的な意義を実質的に持つことになる。

神道の観点からみても、最重要なものと「祈り」が一般的に認識されれば、「祈り」を行う皇室祭祀に実質的な公共性が巡幸とともに認められることになる。多くの国民が共通にこう理解すれば、現行憲法の象徴天皇制のもとにおいて法的には私的な皇室祭祀が実質的には公共的な意義を持つわけだ。神道界では、皇室祭祀が法的に「私的」なものとされていることに反対して改憲を主張しているが、このような見方が広く共有されればそのための憲法改正は不要になるだろう。

天皇陛下は、「伝統の継承者」として「いかに伝統を現代に」生かすかという問題意識を話され、喜びと悲しみの時を「人々と共に過ごして来た」ことや「国民と共にある自覚」を強調された。「祈り」などの神道の「伝統」を「現代」の現行憲法のもとで生かす道をこのメッセージは示しているのだ。それは、改憲を要する「国体」の考え方ではなく、人々と「共に過ごし」「国民と共にある」公共的な象徴天皇の姿である。天皇の「祈り」を神社界が民間の立場からの「祈り」によって補完すれば、戦前のような「国家神道」ではなく「公共的神道」ないし「国民の神道」がこのメッセージを中核にして築かれうると思われるのだ。

神社神道と天皇のメッセージ

神社本庁設立に大きな役割を果たした葦津珍彦は、祭政一致を回復するために改憲論を主張すると同時に、靖国神社の国家護持を当初は願っていた。しかし神社自らの判断でA級戦犯を合祀して民間の神社として自立する道を選ぶと、本紙『中外日報』の連載「公式参拝の問題点」(1980年5月6~15日)で国家護持論の放棄を潔く表明し、公人の公式参拝の主張に変更したと明言した。国家護持論は靖国神社の意向に基づくものだったので、神社自体が民間の宗教法人として歩むことにした以上はその主張を止めていると「告白」したのだ。

天皇陛下ご自身のメッセージは、このような方針転換を神社界に促すものではなかろうか。「大御心」という「天皇意思」に「日本民族の一般意思」を葦津は見て、生涯それを探求した。「天皇お言葉」は神道的に言えば「大御心」の公式な表明に他ならない。もし「天皇意思」が旧「国体」の回復にあるのならば、あくまでもそれを目指すのが神社神道の考え方かもしれない。ところが「天皇意思」は象徴天皇制としての「お務め」が継承されることであることが明らかになった。

葦津の論法を適用すれば、靖国問題でその主体たる神社の意思に即して考えたように、天皇制に関しては最大の主体である天皇ご自身の「意思」を神社神道は尊重すべきではなかろうか。しかもその「大御心」は「日本民族の一般意思」とすら考えうるものとされている。現に国民の大多数が生前退位を支持し、皇室典範の改正も支持しているのだ。「大御心」は生きている天皇個人の意思よりも高く、歴代天皇(皇祖皇宗)の世襲の意思だという議論も葦津はしているが、多くの歴代天皇が譲位されているから、この論理による退位反対論も成立しない。

民主主義において主権者は国民であり、政治的決定は天皇の意向に従う必要はない。けれどもこと神社神道においては天皇陛下ご自身の熟慮された意思表明は軽視できないはずだ。「大御心」に現れた「日本民族の一般意思」を尊重すれば、旧「国体」への回帰という主張に代えて、国民主権・民主主義と調和する象徴天皇の「まつりごと=お務め」の継承を願うことになるのではなかろうか。もしかすると、これは「国体」の更新であり、新しい「国家体制」の確立への道かもしれない。