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なぜ僧堂で暴行事件が起きるのか ― 競争なき閉鎖性が暴力の土壌

慶応義塾大商学部教授 中島隆信氏

2016年12月14日付 中外日報(論)

なかじま・たかのぶ氏=1960年、神奈川県生まれ。慶応義塾大大学院経済学研究科博士課程単位取得。商学博士。専門は応用経済学。2001年から現職。日本相撲協会「ガバナンスの整備に関する独立委員会」副座長を務めた。著書に『お寺の経済学』『家族はなぜうまくいかないのか』『こうして組織は腐敗する』など。

2015年4月10日付の『中外日報』に掲載された記事をご記憶の方も多いだろう。曹洞宗の僧堂で発生した暴行事件について、宗門サイドが僧堂の運営及び監督に関して不備があったことを認めたというものである。

私は法曹界の人間ではないので、法的責任の有無について物言う立場にはない。ただ、経済学者の立場としてその背景について何らかの説明をする必要があると感じる。なぜなら、どんな社会現象にも構造的な理由があり、それを明らかにすることによって同様の事件の再発を防ぐことができると思われるからである。

“閉鎖性”と“教育性”

今回の事件を“タチの悪い”修行僧が起こした不祥事とみなし、トカゲの尻尾切り的な処理に終わらせるべきではない。もちろん、宗門もそのあたりのことは理解しており、僧堂の運営に対するガバナンスの強化を表明している。そうした対策は真っ当なものと評価することができよう。しかし、私はそこからもう一歩踏み込んで、そもそも宗教的な活動そのものがこうした不祥事を引き起こしかねない性質を有していると考えたい。キーワードは“閉鎖性”と“教育性”である。

宗教団体は特定の教義を信仰する信者たちが集まって作る自発的な組織である。そして教義の内容はそれぞれの教団で差別化されている。また、教義がほぼ同じであっても、浄土真宗の本願寺派と大谷派のように、仏壇の形式や作法などで差別化を図っているケースもある。その理由のひとつは、同じ教義ならばそもそも教団を分ける意味がなくなってしまうからである。もうひとつは、作法は優劣を比較できないので、競争を排除できるからである。実際、教団間の競争を避けるということは過去の経験に基づく智恵ともいえる。教義をめぐる争いは、優劣がつけにくいがゆえに感情的な宗教戦争につながりかねないのだ。

企業は市場で競争

この競争を排除するための工夫が閉鎖性と深い関係にある。理解を容易にするため、民間企業を例に競争と閉鎖性の関係について考えてみよう。企業もオフィスという閉じた空間の中で同じ人間と時間を共有していれば必然的に閉鎖性が生じてくる。いわゆる“企業文化”というものだ。外部から不自然に見えることでも組織内では次第に当たり前になっていく。しかし、民間企業の場合、どのような企業文化を有していようと、最終的に製品やサービスが消費者に受け入れられなければ存続できない。たとえば、品質管理を怠り、決められたルールを遵守しなければ、欠陥商品が消費者の手に渡り、企業ブランドを大いに傷つける。そして消費者は他社商品を選ぶようになり、不祥事を起こした企業の経営状態が悪化するのである。つまり、民間企業は市場での競争に晒されているため、企業価値を下落させるような閉鎖性は事前に回避されるのである。

ところが、先に述べたように宗教は教義をめぐる競争をしない。特に、日本の仏教寺院では、檀信徒が境内墓地の永代使用権を取得していることが多いため、寺院間での檀信徒獲得競争はほとんど起こらない。また、僧侶についてもそのほとんどが世襲であり、外部からの新規参入者はマイノリティーである。それゆえ外部の優秀な人材獲得をめぐって教団間で競争するということも起こらない。このように、競争がないため、外部から見れば不自然なことであっても、他の教団との差別化という観点から正当化されやすくなる。冒頭の事件との関連でいえば、禅宗における修行の厳しさは他の宗派との差別化を図るための重要な要素でもあり、また外部とはあまり接点を持たない寺院関係者だけが集まる僧堂であるがゆえに暴力が常態化しやすかったと考えられる。

体罰に厳しい視線

次に教育性の影響について考えよう。まず、人間の行動を大きく“消費”と“投資”に分けてみよう。前者は現時点において、後者は将来時点においてそれぞれ満足を得るための行動と解釈することができる。すなわち、投資は将来のより大きな収穫を得るため現在の快楽を我慢することである。その意味から、医療は明らかに投資である。腹にメスを入れられたり、苦い薬を飲んだりすることで快感を得る人はいないだろう。将来、健康を得られると信じているからこそ、現時点で苦しい手術や投薬に耐えられるのだ。

教育もこれと同じである。勉強自体はあまり楽しい活動とはいえない。できれば友人と遊んだりゲームに興じたりした方が現時点での快楽を得ることができる。しかし、その快楽を我慢し勉学に励むことによって、将来の収入が増え、より多くのお金と時間を娯楽に費やすことができるようになる。

この現時点での苦痛がくせ者である。たとえば、かつて教師が生徒をビンタしたり廊下に立たせたりすることが教室内でまかり通っていた頃、そうした体罰を正当化する理由が“教育の一環”だった。つまり、まともな人間を育てるためには、体罰も必要という考え方である。さすがに現在では、学校での体罰にも厳しい目が向けられるようになったが、家庭における親から子どもへの虐待は“躾”の名のもとに正当化されることもある。

警策は愛のムチ?

教育が体罰に結びつきやすいもうひとつの理由は、効果に“時間差”が見られることである。教育の効果はすぐに現れるものではない。大人になってから「あのとき学校で先生が真剣に叱ってくれたお陰で今の自分がある」などと“愛のムチ”の効用について述懐する人もいる。また、時間差ゆえに単なる“平均への回帰”が体罰の効果と誤解されることもある。人間のコンディションにはバイオリズムがあり、好調と不調を繰り返すことが多い。つまり、不調のときに体罰を受けたとすると、その後に訪れる好調が単なる平均への回帰なのか体罰の効果なのか識別がしづらいのである。

僧堂での修行は僧侶になるための教育と解釈できる。しかも、修行としての坐禅は常人ではなかなか耐えられない厳しいもので、とりわけ警策を与える行為などは、その意味を理解しない第三者が見れば体罰だと見なされかねない。逆に、そうした修行の厳しさが容認されれば、今度は行き過ぎがあっても見過ごされる可能性も出てくるだろう。

自ら活動に責任を

それでは今回のような僧堂における“暴力事件”を防ぐにはどうすればよいのだろうか。宗教に“閉鎖性”と“教育性”が存在することは否めないとしても、それが行き過ぎた暴力につながらないよう組織の透明性を高めることが求められるだろう。たとえば、僧堂を在家信者に公開し、折に触れて座禅会を催すなど外部の目が行き届くようにする。あるいは、宗務庁が修行僧に修行の内容をときおり報告させ、問題があると思われた場合は聞き取り調査などができるようにする。

宗教の性質上、教団におけるすべての情報を公開して国民の理解を得ることは不可能だし、すべきとも思わない。なぜなら、宗教にとってある程度の閉鎖性は必要不可欠な要素でもあるからだ。実際、宗教法人法でも何が修行で何が暴力かなどの定義はなされていない。しかし、それには宗教団体への国民の“信頼”が前提となっていることを忘れてはならない。“信教の自由”とは教団が何をやってもいいという意味ではない。それは信仰上の選択の自由として国民に与えられた権利なのである。本来の意味での“信教の自由”を守るためには、教団は国民からの信頼を維持すべく、自らの活動に責任を持たなければならない。それができなければ行政の介入を招くことを肝に銘じておくべきだろう。