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高野山大学開学前史 ― 学僧・名僧が輩出した「学山高野」

高野山大図書館課長 木下浩良氏

2016年12月9日付 中外日報(論)

きのした・ひろよし氏=1960年、福岡県生まれ。高野山大人文学科国史学専攻卒。専門分野は仏教考古学・高野山史。兵庫県旧竹野町・旧養父町、大阪府岬町、和歌山県九度山町・高野町の各町史編纂委員等を歴任。著書に『はじめての「高野山町石道」入門』『はじめての「高野山奥之院の石塔」入門』『戦国武将と高野山奥之院―石塔の銘文を読む』。

高野山大学は去る10月17日に、創立130周年記念の慶事を迎えた。ただ、その淵源を辿ると、国内はもちろんのこと世界的にも最も古い1200年もの歴史と伝統を有する大学である。まずはこのことを第一に明記したい。

高野山大学の始まりは明治19(1886)年開校の古義大学林とするが、実は宗祖弘法大師空海の弘仁7(816)年高野山開創の時にまで遡られねばならない。昨年の平成27(2015)年に高野山は開創1200年を迎えたが、このことは高野山大学創立1200年の記念すべき年でもあった。本稿は、この高野山開創から古義大学林開校以前の、明治10(1877)年高野山大学林開校までの歴史を振り返りたい。高野山大学が今日あるのは宗祖弘法大師の御意志であり、大師以降の先徳の諸師の努力と労苦の賜物なのである。

高野山には二つの顔があるとは、仏教民俗学の提唱者である五来重先生が指摘されたことである。一つは弘法大師信仰としての顔、もう一つが「学山高野」としての顔である。弘法大師信仰としての御山の高野山については今更、紹介するまでもないが、「学山高野」のことは、意外なことに真言宗内においても知られていない。

そもそも、空海が高野山を開創された理由は後継者養成のためであった。朝廷は空海に年間の出家得度者3名を許した。その新人僧侶は、6カ年に及ぶ高野山住山をして、勉学と修行の日々を過ごしたのであった。以来、高野山からは幾多の学僧・名僧が輩出したのである。「学山高野」とされる所以はここにある。

この「学山高野」のことは近年、高野山大学名誉教授山陰加春夫先生の研究によりさらに明確になった。それが、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが天文18(1549)年に鹿児島で書いた書簡にある記述で、高野山が中世日本の6大学の一つであると記されてあることである。他の5大学は、京都の五山官寺・根来寺・比叡山延暦寺・三井寺園城寺(または多武峰寺)・足利学校の五つであった。

高野山内の塔頭寺院はカレッジ(学寮)であって、高野山全体がユニバーシティーだった。高野山内の塔頭寺院の数は江戸時代の元禄以前で、1800軒以上を数えた。いわば、1800ものカレッジを有する大学が高野山であった。

高野山講学所

明治維新の後に、高野山に近代的な学校が創建された。それが、高野山講学所である。開校は、明治2(1869)年と推定される。我が国が近代国家として再出発をした直後に、高野山上に近代学校が開校した意義は大きい。高野山の近代化は勤王僧の存在が大きかったものと考える。

この高野山講学所があった地点は、かつての大徳院があった場所で、現在の南院付近であった。学生は全寮制で、組織としては、下局と上局の2段階に分かれていた。下局は、20歳以下の僧侶と、20歳以上でも学力が劣る者と、外典(真言宗以外の典籍)を好む者が入らなければならなかった。

下局の構成は、さらに内典局と外典局があり、その両局はそれぞれ第一級・第二級・第三級との三つに分かれていて、全部で6級の段階になっていた。下局では主に素読が中心で、毎月試験があって、6級の全てに合格した者だけが上局へと進むことができた。下局の教師としては、外典に達者・悉曇に達者・声明に達者の各1名の都合3名がいた。まさに下局における教育は真言宗僧侶としての教養課程と初等・中等教育課程であったことが指摘される。この下局過程を終えて学生は上局へと進学するのである。上局では、真言宗所学の経・律・論の講義がなされた。要するに、真言宗僧侶としての高等教育をここで受けることになる。上局では6年を修学期間とした。

高野山小教院

次に、高野山上でできた学校として、高野山小教院が挙げられる。慶応3(1868)年、明治天皇の名により天皇親政を宣言した王政復古の大号令の後、祭政一致の理念に基づき、明治政府において神祇官が復活して、国民に対する教化に乗り出した。しかし、見るべき成果はあげられなかった。一方廃仏毀釈の打撃を受けた仏教側は、新しい仏教界を所管とする中央官庁の設置を望んでいた。

そこで政府は明治5(1872)年、教部省を設置して社寺行政全般を統括させた。全国の神官・僧侶の全てを無給の官吏の教導職として、国民教化にあたらせた。全国の教導職の教育・統括にあたったのが大教院で、東京の増上寺に置かれた。その分院として各府県に中教院、各地に小教院が置かれたのである。

高野山には、高野山小教院が同じ年に設けられた。設置の場所は穀屋跡(現在の西禅院前)で、後に興山寺跡(現在の金剛峯寺奥殿付近)へ移転している。高野山講学所は、高野山小教院が開校した時点で廃校になったものと推定される。

高野山小教院の特色として、明治政府の教育方針に応えながら、真言宗独自の宗団組織に小教院の教育制度を組み込んでいる点が注目される。

僧侶希望者は全国の小教院に入学して、普通学・専門学を勉強し試験合格の後に、得度をした。つまり、小教院入学が僧侶となる必須の条件であった。高野山小教院の学課は9級から1級までの9段階に分かれ、各級の試験合格者のみが上級へ行けた。9級から7級を下等、6級から4級を中等、3級から1級を上等とした。学費は、真言宗寺院の子弟であれば、寝具・食器の他は不要であった。注目される点は、入学者は僧侶に限定したものでなく、広く一般からの入学も募っていることである。ただし、一般からの入学者は学費を必要とした。

全国の真言宗下の小教院の学生は学業を修了後に灌頂を終えて、必ず高野山に登り交衆しなければならなかった。真言宗の小教院は各国に置かれたが、高野山の小教院が中心的存在であったことが指摘される。学習内容は、皇学・釈学・漢学・洋学の4種に大別された。

下等・中等では毎月試験が行われた。下等修了者は、管長より許牒が下されて下等寺院(高野山の中・下寺院及び地方の「平ら寺院」)の住職となれた。中等修了者は、上等寺院(高野山の上分寺院及び地方の本寺・触頭寺院)の住職になれた。また、上等修了者に対しては卒業後も、皇学・漢学・洋学を一層熟練するように戒めたのであった。

この高野山小教院で注目されることは、すでに図書館の前身が存在したことが挙げられる。図書係員を司籍と称した。これは今日の司書のことで、書籍の購入・点検と、貸出・返却を受け付けた。

高野山大学林

そして明治10(1877)年、高野山小教院は高野山大学林と改称して開校した。明治政府による全国の神官・僧侶全体を統轄する大教院制度は数年で崩壊して、各宗別の大教院が設けられた。真言宗大教院は東京芝の真福寺に設けられて、真言宗内における学林は高野山・智山・長谷寺の三つに分立することになる。高野山には古義真言宗全体の学校である高野山大学林が設けられたのであった。

同学林の教育課程は初級から9級の9段階とした。初級・2級を終えて帰住する者を住学衆と称し、さらに上級へ進学する者を進学衆と称した。初級から3級を下等、4級から6級を中等、7級から9級を上等として、この差をもって各級の修了者は大中小寺院の住職となった。学生は年間4回の試験があり、その学習結果によって昇級した。地方寺院といっても、初級卒業以上でなければ寺院住職にはなれなかった。また、各県下に置かれた真言宗中教院における内試験の結果により、入学希望者は高野山より等級至当の許可状を授与されて、その等級に応じた公試験を受けた。学生全員が初級から入学するとは限らなかった。

また、高野山大学林附属中学林(高野山高校の前身)ができたのは、明治13(1880)年であった。初級以下の等外生収容のために設置された。それ以前は、大学林内に等外生授業所があった。

以上、明治時代における真言宗教師は学習を重んじた学歴社会であり、教育制度の上に宗団が成り立っていた様がうかがえる。このことは、この後の古義大学林でもより明らかなのであった。