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教養と化した宗教の来歴 ― 宗教に親しんだエリート層

龍谷大アジア仏教文化研究センター博士研究員 碧海寿広氏

2016年11月30日付 中外日報(論)

おおみ・としひろ氏=1981年、東京都生まれ。慶応義塾大大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。博士(社会学)。宗教情報リサーチセンター研究員を経て、2013年から現職。慶応義塾大、立教大で非常勤(兼任)講師。著書に『近代仏教のなかの真宗』(法藏館)、『入門近代仏教思想』(ちくま新書)など。

宗教に関心があり色々と学んでもみるのだが、特定の宗教に深入りすることはない。いまの日本には、そんな人が少なからずいると思います。こうしたタイプの宗教との関係を、比較的多くの人々が結ぶようになったのは、いつの頃からなのでしょうか。私の見るところ、それは20世紀を迎えてからの、明治後期から大正期のあたりであると思います。

その主な拠点となったのは、東京です。当時の東京では、数多くの魅力的な宗教者たちが活躍しており、また書店には様々な宗教関連の本が並んでいました。そうした宗教者や宗教書に対して積極的に接しようとしたのは、現在の常識からするとやや意外かもしれませんが、大学などの高等教育機関に通う学生たちでした。大学生が社会的に超エリートであった時代において、少なからぬ学生が宗教に親しむという状況が、確かにあったのです。

「信念の修養」重ね

彼らが親しんだ宗教者としては、たとえば、浄土真宗の清沢満之や近角常観、キリスト教の内村鑑三や海老名弾正、あるいは宗教者に近い存在として、静坐法で有名な岡田虎二郎などがいました。学生たちは、こうした宗教家たちのもとに通い、そこで霊性に富んだ教えを聴いたり、人生の指針を得たりしていました。

彼らの宗教に対する向き合い方は、もちろん、人それぞれであったはずです。けれど、大きくは二つのパターンに、彼らの生き方が分かれたものと思われます。この点に関して、私がこれまで研究してきた、近角常観(1870~1941)を具体的な例にして少し論じてみましょう。

近角という一人の宗教者の教えを、自分の一生の規範として生きていく。それが一つ目のパターンです。近角のもとには、人間関係や将来に対する不安や、自分という存在をめぐる漠然とした悩みを抱えた、数多くの若者が集いました。近角は、彼らの苦悩をその達人的な説法によって解決するとともに、その後の人生において彼らに降りかかる様々な困難に立ち向かうための、信仰の大切さを丁寧に説いていきました。

人間の悩みは一生尽きることがないし、次第に複雑になる傾向にある。それに応じて、悩みの解消を手助けしてくれる信仰に対する個人の向き合い方も、だんだんと深まっていく。こうした信仰の深まりの過程を、近角は「信念の修養」と表現しました。近角に出会ったことで若い内に信仰の価値に目覚め、そして社会の中で「信念の修養」を積み重ねながら、信仰とともに生き、信仰とともに死んでいく。それが、この時期に学生だった人々による、宗教との接し方の一つのパターンでした。

一方、近角のもとを訪れた学生の中には、近角から真宗の教えとは何かを学び、またそれを生きるヒントとして役立てながらも、近角の教えにのみ一途に従うことをよしとしない人々もいました。彼らは、近角のもとを訪れた翌週には、たとえば内村鑑三のもとで『聖書』の新鮮な解釈を学び、あるいはその翌週には西田幾多郎の『善の研究』(1911年)を読んで、そこに記された宗教をめぐる奥深い思想に魅入られる、といったような生活を送っていました。

宗教において大事なのは一途な信仰だ、という考えを仮に読者がお持ちの場合、こうしたパターンによる宗教との向き合い方は、やや軽薄に感じられるかもしれません。しかし、彼らの内面を探ってみれば、そこには軽薄とは言いがたい心情が働いており、彼らもまたある意味では一途な人々でした。「教養」に対して一途だったのです。

「教養主義」という思想ないしは信条のようなものが、かつて社会的に強い力を持っていました。大正期がそのピークだとされています。おもに西洋に由来する哲学や文学をたくさん読み、美術や音楽などにも幅広く精通することで、自らの人間性を磨いていく。エリートであれば一定の教養は不可欠であり、教養のない人間は低級である。そうした「教養主義」の理念が影響力を持った時代において、宗教もまた、教養のある人間であれば押さえておくべき対象の一つとなっていました。

もっとも、宗教であれば何でもよかったわけではありません。寺社参詣のような庶民的な信仰活動や、素朴な地獄・極楽の実在論は、愚かな民による「迷信」として忌避されることが多かった。教養を求めた学生やエリートたちにとって、宗教とは基本的に、知的に洗練されたものである必要がありました。西洋哲学を通して再解釈された仏教や、近代社会を生きる人間のリアリティーに即した宗教の思想や実践が、そこでは希求されていたのです。

こうした教養主義的な宗教受容が息づく世界を目の当たりにしながら、やがて自らがその代表的な伝道者となっていくのが、倉田百三と和辻哲郎です。それぞれ、『出家とその弟子』(1917年)と『古寺巡礼』(1919年)という、宗教の教養化について語る上で決定的とも言える著作があります。どちらも教養主義の牙城とも言うべき岩波書店から刊行された、近代日本のベストセラー作品です。

『出家とその弟子』は、親鸞を主人公とする戯曲です。しかし、浄土真宗の教えを伝えるための作品ではまったくなく、仏教と西洋思想やキリスト教とがまぜこぜになった教えを語る親鸞や、その周囲の人間たちが織りなす群像劇です。そういった趣旨の作品ですので、真宗の「正しい」教義にこだわる向きからの批判の声も上がりました。けれど、著者の倉田は、この作品は自分の思い描く親鸞を書いただけだと、その種の批判をスルーしました。そして、真宗の教義的な正確さよりも倉田の示す独自の宗教的な物語のほうに引かれる多数の読者を獲得し、出版界での大成功を収めました。

仏像を「美術」観賞

一方、『古寺巡礼』は、和辻が友人と一緒に歩んだ奈良観光についてのエッセーであり、特に大和の古寺と仏像に関する記述を中心とする作品です。仏像と対面して恍惚となる著者の情熱的な文章が、読者の憧れや共感を呼び起こします。とはいえ、本稿にとって最も重要な点は、仏像を「美術」として捉えようとする著者のスタンスです。仏像は、拝むものではなく、観て楽しみ、あるいは歴史に親しむためのものである。本書に通底したメッセージですが、こうした発想は、仏像はあくまでも拝むものであると信じる亀井勝一郎のような敬虔な評論家からの反感を買いつつも、その後の古寺・仏像巡りのスタイルの一つとして、広く受け入れられていくのです。

宗教者やその思想をテーマとした本は読むが、その宗教の信者にはならない。古寺名刹や仏像を観るのは趣味だが、自分は仏教徒ではないと考える。日本人の間でそうした宗教との接し方が広まっていく上で、上記の2冊の本は、大きな影響を及ぼしたものと思われます。少なくとも、そうした風潮の伸張を象徴するような作品ではあったと思います。かくして宗教は教養と化し、今なお私たちの教養文化の一角に、宗教は存在し続けていると言えるでしょう。

教養人の宗教性は

と、ここで論を打ち切ってもいいのですが、しかし、最後にやや面倒なことを問うておきたいと思います。すなわち、「宗教を教養として受容する人々の宗教性とは何か?」。本稿で取り上げた倉田と和辻は、最期まで特定の宗教の信者として振る舞うことを避けました。様々な宗教思想や文化に触れて、それらを巧みに論じつつ、どこかで距離を置き続けることを忘れませんでした。しかしながら、幼少期に真宗信仰の濃厚な地域で育った倉田は、自らの死を目前にして、浄土の実在の有無が気になって仕方がなかったようです。和辻の天皇や日本文化に対する傾倒ぶりに、「宗教的志向の世俗化形態」を読み取る説がありますが(湯浅泰雄)、この説を敷衍すれば、彼の宗教性は常に世俗的な装いをもって発露されていたのだと強弁できるかもしれません。

宗教は一部では教養と化しました。しかし、人間は宗教から完全に自由な教養人として生きていくことが可能なのでしょうか。これは、掘り下げて論じるに足る問題であると思います。