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幕末の天台宗に伝わった井上正鐡の「信心」の系譜

井上正鐡研究会代表 荻原稔氏

2016年11月4日付 中外日報(論)

おぎはら・みのり氏=1961年生まれ。法政大文学部卒業。都立府中養護学校教諭などを経て2009年、都立青峰学園主幹教諭。元國學院大兼任講師。井上正鐡研究会代表。「白川家と江戸の門人」(『神道宗教』143号、平成3年)など井上正鐡門下に関する論文多数。
禊教教祖井上正鐡の「信心」

禊教教祖とされる井上正鐡(1790~1849)は、江戸末期の天保年間に江戸近郊で民衆教化の活動を行い、「祓修行」という行法を伝えた。それは、リーダーの鈴のリズムに合わせて、「とほかみえみため」という神道の祓詞を大声で唱え続けるなかで、指導者(産霊役)により「喜心」「悟心」という二つのステップの通過を見定められると、「信心」を授けられるというのである。行法に参加する者は誰でも、数日という短期間のうちに、「疑の心」を離れて、「誠の心」即ち「信心」という境地に至り得るというメソッドである。

だから、この「信心」とは、長期の学習が必要な教義の習得による信仰心や苦行ではなく、行法に「のり」(乗り、宣り、則り)さえすれば、到達できる易行であり、身体感覚なのであった。正鐡自身は、この「信心伝授」のメソッドを「今井いよ」「貞昌」という未詳の女性指導者から伝承したのだが、今日その淵源がどこなのかを論証する手立ては見つからない。しかし、身体感覚としての「信心」は、確かに伝えられていたのである。

井上門中の展開

正鐡の活動は、寺社奉行による取り締まりを受けたが、門人たちによって秘密裏に伝承され、明治時代を迎えて、その多くの部分は「大成教禊教」や「禊教」として、金光教や黒住教などとともに教派神道の一部を形成していった。そのため、今日では神道の一派としての認識が一般的であるが、実は仏教的な展開をした流れもあり、昭和初期までは、古老にはその事実が記憶されていた。ある教会の機関誌には、「(正鐡の門人たちは)…一は仏教で修行する一派、一は神道で修行する一派に分れ、更に神道に一は禊派、一は『とほかみ』派に分れた。何れも其の奥に進めば同一なる正鐡翁の伝へたものであるに帰着する。…正鐡翁の苦心されたのは呼吸即ち息の術であった…」(『唯一』2巻8号、昭和9年)という記事がある。これは禊教の歴史を端的に概括しているが、この「仏教で修行する一派」が、「南無、阿弥、陀仏」とリズミカルに大声で名号を唱え続け、やがて「信心」を伝授される「高声念仏」の教化活動であった。すなわち正鐡の行法では、唱え言葉の交換が可能だったのである。

この「高声念仏」については、江戸学者の三田村鳶魚が、大正元年の論文「調息の獄」(『日本及び日本人』587号から595号)で言及してはいたが、100年を経て拙稿「禊教の初期門中と弾誓流高声念仏の復興」(『神道宗教』220・221号、平成23年)でようやくその詳細を明らかにすることができた。

弾誓流高声念仏の復興

さて、この「高声念仏」は、最後の導師で天台宗大僧正でもあった須藤大元が「弾誓流高声念仏」(『天台』4号、昭和56年)と題して書いているように、その淵源には近世初頭の念仏行者木食弾誓(1551~1613)が位置付けられていた。そして、相承譜には、傍系の先師として井上正鐡とその高弟三浦知善(1798~1856)の名も見えているのだが、この「弾誓流高声念仏」復興の活動を安政年間(1854~60)に始めたのは、江戸郊外の天台宗浄光寺(東京都葛飾区)53世住職であった諶長(1810~59)である。浄光寺は将軍の鷹狩の休息所であって朱印地も有し、『江戸名所図会』には「木下川薬師」として掲載されている名刹であった。諶長は焼失していた本堂や庫裡を再建して寺の復興を成就して隠居し、安政初年に三浦知善と出会い「信心伝授」のメソッドを継承して、「但唱」を名乗り「念仏信心伝授」を指導し始めたのだった。

木食行者弾誓と高弟但唱

実は、この「但唱」とは、木食弾誓の後継者の一人の名でもある。弾誓は尾張国に生まれて諸国行脚の末に、慶長2(1597)年に佐渡の檀特山で現われた阿弥陀如来から「十方西清王法国光明満正弾誓阿弥陀佛」の名と、信心の境地を表す「仏頭」を授けられた。その念仏は、跳踉囀蹶といわれ、自ら「ツムリフリマワス念仏」というように身体の動きや音声の変化も激しかったらしい。その高弟であった木食但唱(1579~1641)は師の念仏を継承しつつ各地で作仏勧進を行い、最晩年の寛永16(1639)年正月には、江戸幕府の宗教統制に対応して、天海より「融通念仏弘通朱印状」を受けて弾誓流の念仏集団を天台宗の傘下で存続させることに成功した。しかし、浄土宗に所属するグループもあったりして、独自の念仏行法もやがて衰退した。

2人の但唱

浄光寺但唱は、没後約200年を経たこの木食但唱に自分を重ね合わせて、念仏信心の復興を企図したようだ。活動期間は、安政6(1859)年10月に没するまでのわずか5、6年間程度であったが、それを受けた一人が、後に「深大寺高声念仏」を指導するようになった天台宗深大寺(東京都調布市)80世住職尭欽(1822~1902)だった。この人は、当初は「世上一般但唱ノ念佛ヲ邪法念佛ナリト云フ沙汰アルカ故ニ容易ニ許諾」(『高聲念佛起源』)せず、但唱の存命中には入門しなかった。しかし、訃報を聞いて慕わしくなり、但唱の同行であり正鐡の直門でもあった村越守一(1813~80)から文久元(1861)年4月に「念仏信心」を授かったのだった。そこから、深大寺の末寺であった西蔵寺(川崎市)住職の亮伝(1829~90)が影響を受け、西蔵寺住職を辞して、浄土宗の弾誓遺跡寺院である箱根塔ノ峰阿弥陀寺の立基(後の證善)(1830~1910)に入門して、2年半ほど高声念仏を修行したのである。

高声念仏の展開

塔ノ峰阿弥陀寺の立基は、浄光寺但唱から「信心伝授」のメソッドを得て高声念仏の指導を始め、亮伝も門下となったのだが、明治5(1872)年には大流行して足柄県の取り締まりを受けるに至った。当時の新聞記事には、「講中昼夜高声ニ念仏ヲ唱ヘ、且満願結縁ノ節ハ男女ニ限ラズ一人宛暗室ニ入レ念仏ヲ唱ヘサセ、遂ニ咽喉渇キ、身体労シテ気絶スルニ至ル…色々ト介抱シ、更ニ今日ヨリ菩薩ノ善性ヲ受ケ、罪障脱シ、幸福ヲ得タル」(『新聞雑誌』61号)と教えたと記されている。だが、このトラブルを契機に浄土宗から時宗に転じて證善と改名して横浜に浄光寺を建立し、さらに時宗でも高声念仏を指導した。

さて、塔ノ峰での修行を終えた亮伝は、慶応4(1868)年に天台宗真福寺(千葉県いすみ市)の32世住職となり、明治2(1869)年から高声念仏の指導を開始した。明治11(1878)年には、天台宗所属の「浄信講社」を設立して参篭設備も整えた。それから120年以上にわたり継承されて、平成初年まで高声念仏が行じられていたのだ。

「信心伝授」の謎

浄光寺但唱は、井上門中の三浦知善に出会うことで、どうして200年前の弾誓の「念仏信心伝授」の復興という思いに至ったのだろうか。弾誓と正鐡を直接つなぐ文献上の系譜は見当たらないし、弾誓の念仏と復興した「弾誓流高声念仏」とは、同一でもなさそうだ。今日には伝わらない口伝を知っていたのかもしれないが、木食行者の「信心」が、幕府の宗教統制に従いつつ地下に潜って再び湧出したとき、行ずる者は誰でも「信心」を授かれる「信心伝授」という易行のメソッドの姿をしていたと読み取ったのではなかろうか。