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ラダックの空と湖 ― チベット高地で仏教を思う

精神病理学者 野田正彰氏

2016年9月21日付 中外日報(論)

のだ・まさあき氏=1944年、高知県生まれ。北海道大医学部卒。神戸市外国語大や京都造形芸術大、京都女子大、関西学院大の教授を歴任。精神科医、評論家。『コンピュータ新人類の研究』(大宅壮一ノンフィクション賞)など著書多数。

標高3500メートル、ラダック(インドの北西)の旧都レー。昨夜の小雨で、民家を区切る日干し煉瓦の厚い壁が湿って黒ずんでいる。道にそって高く直立するポプラは揺れず、緑は鮮やか。道を左右から包む高い土壁に上って、チベット犬がゆっくり歩いてくる。時々犬は立ち止まって周りを眺め、朝の空気を快さそうに吸う。向こうでは、おばさんが残飯を拡げ、たむろしている犬たちに与えている。

こんなレーの町を出て4時間、広い谷の長い斜面を何度となく越え、すぐ上で雷が轟き、雹がたたきつける軍用道路(ビーコン・ハイウェイ)を登り、カルドン峠に達した。「標高5602m、世界一高いハイウェイ」と書かれた看板を無数のタルチョン(赤、白、青、黄の経文を書いた布)の渦が囲み、突然晴れわたった空に、風を切る音をたてている。持ってきた菓子袋は、気圧が下がり、破れそうに膨らんでいた。背後からの陽光によるものか、虹は白雪のカラコラム山脈(崑崙山脈)の上に水平に伸びていた。

峠を越し、やがて厚い積雪の道から、巨岩を割った道、乾いた礫岩の斜面、黄緑の薄ベールがおおう深い夏の谷へ、一気に降りてきた。

ラダック山脈を越えたヌプラ(緑の国)、そこは桃源郷そのものだった。数キロの川幅で白砂のシャヨク川が、カラコラム山脈からバルチスタン(パキスタン領)へ、東から西へ流れる。巨大な氷河が何万年の時をかけて彫りこんだ深く広い渓谷。中央に急流が流れ、所々にポプラや柳の緑地。対岸は切り立つ岩山、白雪のカラコラム山脈の連なり。視線は一望ではおさめきれず、下って、大きく胸をふくらませて対岸に吸いこまれ、再びゆっくりと頸を上に折り曲げて、ようやく峻険の嶺に届く。視線の往復とともに胸はさらにふくらみ、心も大きく澄んでいく。

パキスタン軍・中国軍とインド軍が対峙するヌプラの谷に外国人が入れるようになったのは1994年。さらに私が越えてきた5000メートル級の峠を2、3越すことが許可されれば、1週間たらずでカシュガル、ヤルカンド、ホータンへ到達できるだろう。今は閉ざされている交易路は、1000年前から仏教が渡っていった道でもある。かつて栄えた交易路は北が閉鎖された故に、忘れられた静かな里になった。

川辺に遠く離れて点在する集落は、それぞれ古い寺院(ゴンパ)を岩山に持つ。例えばシャヨク川とヌプラ川の分岐点(3350メートル)にあるデスキット・ゴンパは1433年創建。岩山に階を重ねて建ち、礼拝堂には忿怒尊が並び、男女の仏が抱きあって、一切のものが清浄であり空であることを伝えている。灌漑のはりめぐらされた村へ入っていくと、所々に大きなマニ車、古いチョルテンがある。村人はわずかな土地に大麦を植え、野菜を育て、仏教の世界観に生きている。

垂直の景観とラダック仏教

こうして高地を旅していると、人の生きる景観には「垂直あるいは傾斜の世界」と、「水平の世界」の二つがあるのを実感する。水平の環境とは海辺あるいは平野。森から出て平野や海岸部にたどり着いた人類は、その開かれて交流しやすい環境で文明を創った。文明は常に拡大しようとし、周辺の森と村を襲う。戦争と略奪を恐れる人びとは、さらに奥地へ、深い谷へ、高い山へ逃げ隠れ住む。

急傾斜の山地に住む人々は、谷へ下りていくにしろ、峠を越えて行くにしろ、自分で歩かねばならない。馬、ロバ、牛に荷を積んだとしても、やはり自分で登り降りしなければならない。それ故に山人は自立しており、無口で頑固、思索と信仰に生きている。アルプス高地、ドロミテ、チロル。チベットや四川省・雲南省の山地、ブータン、エベレストやアンナプルナ山脈。西と東の高地に暮らす人びとはキリスト教や仏教の違いを超えて、共通する精神性を私は感じる。独りで立ち、観念的であり、青く澄みわたった天空に向かってさらにさらに高く、神や仏が住む何億年の未来と触れあっている。

ゴータマ・シッダールタ(釈尊)の説いた仏教も、森から出て、インド亜大陸の平野、海に接する島(セイロン)や半島(ビルマ、タイ、ベトナム)、ヒマラヤとチベット高原、そして中国、朝鮮、日本へと、地理と文化と戦争に影響されながら多くの仏教に分岐してきた。豊かな平野と森が重なるヒマラヤ山脈の南裾、ルンビニを出て、忘想の湧きおこる森の中での悟りではなく、八正道による正しい生き方を東インドの平野で説いたブッダの仏教から、どんなに違ってきたことか。とりわけ1203年、イスラーム教徒軍によってヴィクラマシーラ寺院を焼却され、母地インド亜大陸が大きな空白となってから、伝播していった周辺の地で変質しそれぞれ固有の思想や伝承となっている。

インドの北に接するが故に、チベット仏教はインド仏教の発展(変質)を少し遅れて受け入れ、インド仏教が消えた後、後期仏教をチベット化し純化してきた。顕教も密教もタントラ仏教も接合され、乾いた岩山の寺院のなかに多数の仏、造形、論理、鮮やかな色彩となって活きている。15年前、ラサ近郊のセラ寺、デブン寺を訪ねたとき、私は垂直の景観と密教との結びつきをここまで感じなかったが、ラダックではくっきりと感じる。ラサに残る仏教はそれだけ高地に生きる人々の世界が抑圧され、削ぎ落とされていたのであろう。

パンゴン湖のささやき

デスキット、フンダルで泊まった後、私たちは美しいシャヨク川の広い川底を四輪駆動車で終日上っていった。丸石の川底の真中に、深くえぐって冷たい水が蛇行する。寄り添ってポプラ、柳の群生、3メートルほどに高くのびる赤い野バラ、セーアという白い小花をつけた灌木。道なき川底の石の上を走って、身体はばらばらになりそうだった。

やがてシャヨク川と別れ、インド軍のキャンプをへてタングツェ。パシミナ山羊やヤクが草をはむ広い谷間を走り抜け、夕刻、やっとパンゴン湖へ着いた。細長い琵琶湖より大きい湖、標高4200メートル。対岸は中国の実効支配地で6000メートルを超える山嶺がかなたに輝いている。ここに外国人が入域できるようになったのは最近のことという。湖は澄みきり、薄い塩水のため藻も付かず、水が透明から淡い緑に色彩を変える深みまで、揺れて映る。私たちの泊まったテントは水際のすぐ上に張られていた。

翌朝早く目を醒まし、湖畔を東へ歩く。私は太陽が昇るにつれ、刻々と対岸へ、赤褐色の礫岩の山脈へ、水鏡の煌めきが去っていく湖のささやきを聴いた。

パンゴン湖。 岩を透かし、薄緑から青緑に、青から紫紺に。 カラコラムの山嶺と語りかけるパンゴン湖。

波は朝日とともに星屑を削り、 悠久の時と合わさって、 水の帯を織る。

岩にささやく 甘い細波、 時に生きているの 行ってしまったの と尋ねているかのように、 岩を打つ音を大きくする。

黒い力を籠めた山脈 そびえる白雪の峰、カラコラム、パンゴン湖。

おまえの命は 私の命と同じくはかないのか、 甘くささやけ、時に強く、

細波がとかす白い砂は 世界が生きてきた証。

湖の彼方をカラコラムと呼ぶべきか、崑崙と呼ぶべきか。雪の斜面を越えて、今もチベットの人びとが亡命してきている。古びた服、わずかな食物。足を凍傷で痛めながら、5000メートルを超す峠を歩いてきている。私はダラムシャーラーのチベット博物館で見た写真、ナンパ峠の雪原で中国兵に狙撃されて横たわる17歳のチベット人(2006年9月30日)の写真が忘れられない。かつて仏教が渡っていった峠を、今もチベットの人びとが難民となって越えてきている。

ラダック仏教は高野山大学・種智院大学ラマ教文化調査団(1977年)がレーの西、インダス川下流のアルチ・ゴンパなどに入って以来、日本の仏教徒にはなつかしい故地となっている。私はヌプラだけでなく、インダス川下流の下ラダック、インダス上流のモリリ湖などを旅し、あの垂直の景観と紺碧の空に浮かぶタントラに魅せられた。成田空港で乗り替えて、目下に見た富士山が小さな丘のようだった。

(野田氏は2016年6月8日から23日までラダックを訪問)