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アンコール遺跡に向かった中外日報社員 角田素江

文化庁文化部宗教課専門職 大澤広嗣氏

2016年9月2日付 中外日報(論)

おおさわ・こうじ氏=1976年生まれ。駒沢大仏教学部卒業。大正大大学院宗教学専攻博士後期課程修了。東洋大文学部非常勤講師、武蔵野大仏教文化研究所非常勤研究員、龍谷大アジア仏教文化研究センター客員研究員。
はじめに

2017(平成29)年、中外日報は創刊120年を迎える。本紙は、近現代の宗教界の動向を知る上で貴重な資料である。筆者は、過去の紙面を収めた中外日報のマイクロフィルムにより、研究上の恩恵を大いに受けてきた。

近年は、個人研究として、太平洋戦争当時の仏教者と仏教学者による東南アジアへの関与について調査してきた。その成果は、拙著『戦時下の日本仏教と南方地域』(法藏館、2015年12月)として刊行し、各章で本紙を引用した。

ある時、1943(昭和18)年前後の中外日報を見ると、角田素江という名前が頻繁に出てくることに気がついた。しかも、カンボジアのアンコール遺跡に関する記事である。調べてみると、真宗大谷派が組織した東本願寺南方美術調査隊に、中外日報の特派員として、角田は参加していた。

その後、調査隊の活動については、拙稿「アンコール遺跡と東本願寺南方美術調査隊」(拙編『仏教をめぐる日本と東南アジア地域』アジア遊学第196号、勉誠出版、2016年3月)にまとめた。

角田素江は、重要な人物であったが、前稿のなかで十分に触れることができなかった。そこで、中外日報史の一断面として、論考の補遺を兼ねつつ、角田について紹介したい。

自由画家として教える

角田素江(本名・茂)は、1890(明治23)年に京都伏見にて生まれ、京都市美術工芸学校(現在の京都市立芸術大学)の絵画科にて学んだ(荒木矩編『大日本書画名家大鑑 伝記下編』同大鑑刊行会、1934年)。素江の読みは判然としないが、「そこう」または「もとえ」であろう。

卒業後は、京都市内の中心に位置する明倫小学校で図画を教えた。同校では、1917(大正6)年に、師範学校を出たばかりの塩見静一が校長として赴任した。時代は、大正自由教育の風潮が広まっていた。

塩見は、自由画運動に参加していた角田を招き、全校での図画の授業を担当させた。当時の小学校の図画では、教科書にある絵を手本に書いた。しかし自由画とは、生徒が自由に画題を選び、好きなものを書かせることであった。

教室での角田は、洋服は着ておらず、黒い紋付の羽織に袴という服装をしていた。手を袖に入れて腕組みをしながら、「それもいいなあ」と褒めたという。生徒の絵を評価するときは、この言葉以外は使わず、多くの生徒がこの言葉で褒められたのである。

明倫小で教えた生徒の一人に、後に医師で育児評論家となる松田道雄がいた。

松田は、「小学校五年のとき、……自由画の画家角田素江氏……に出逢うことにより、はじめて学校へゆくよろこびを知る」(松田道雄『花洛小景』筑摩書房、81年)と書いている。角田の指導により、画技を伸ばし、新聞社主催の絵画コンクールで、松田は3等に入選したのであった。

中外日報社に入る

角田は、その後、中外日報社に入社した。時期と経緯は詳らかではないが、紙面を飾る挿画作り、記者として取材、紙面の編集を担当していた。

同社に勤めた福見涙草は、角田に兄事していた。福見は、中外日報社創刊者である真渓涙骨から一字をもらい「涙草」と名乗るなど、涙骨の意思を継承する人物といわれた。角田について次のように回想する。

私の生涯を通じて、この人ほどひきつけられた人はない。また随分世話になった……本来が画家だけに純情そのものといった人で、この人の非難の声をきいたことがない。……座談会があると、出席者の似顔をスケッチするのが素江さんの役だったが、それがどれだけか中外紙上に雅味をもたせたことか。(福見涙草『激動の宗教界を回想』福見印刷企画、2010年)

このように、角田の挿画は、紙面に情趣を与えていたのである。また、浄土真宗本願寺派僧侶の梅原真隆が、執筆した連載欄「ペン光る」では、挿絵は山口八九子、柴田晩葉、村田泥蛙が担当したが、角田もその一人であった。

南方美術調査隊に加わる

41(昭和16)年12月の開戦後、日本は東南アジア各地を侵攻した。既にフランス領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)は、40年から翌年にかけて、日本軍が武力進駐をしていた。

カンボジアには、石造寺院として著名なアンコール遺跡が所在する。42(同17)年10月に、真宗大谷派では、同遺跡の調査のため、東本願寺南方美術調査隊を派遣した。この調査は、学術調査を通じて、大谷派が南方地域への進出を試みたものである。

調査隊は、隊長に画家の杉本哲郎を含む、計12人で編成されたが、隊員の多くは京都日本画家連盟(現在の京都日本画家協会)に所属した画家たちであった。連盟に属した角田も、隊員に選抜された。

中外日報社主の真渓涙骨は、角田から調査隊参加の申し出に快く了承した。涙骨は、次のように記している。

我社の角田素江も其同人〔調査隊のこと――引用者〕の一員として是非之に参加し時局の前に提供されたる南方の宗教事情の実査に我が特派員として当りたいと申出る。社は左〔たすけ〕らぬだに人手薄く日々の編輯事務にも相当困つてゐる折柄なれど、その壮図に同情して之に快諾を与へた。(「編輯日誌」『中外日報』42年2月22日)

アンコール遺跡に到着後、調査隊は、3班に分かれて、壁画模写、浮彫の拓本採取、写真撮影を行った。角田は、絵画班に属して模写を担当した。活動の合間に、角田は、「夕暮などよくスケツチ帖一冊をもつて、ジヤングルの中を分けて」点在する集落を訪問していたという(「仏印より泰へ」43年3月4日)。

調査隊の一行は、43年2月に、現地で解散式を行い、同年春には帰国している。

現地から記事を寄せる

調査隊の活動時期に、角田素江は、中外日報の特派員として、現地での様子を報告していた。筆者が確認した限り、本紙に掲載された角田の署名があるアンコール遺跡及び南方関係の記事は、次のものがある。

42(昭和17)年=「瞑想アンコール・ワット」(全5回、9月26日~10月2日)、「印度支那〔インドシナ〕指して」(11月1日)、「南方美術調査隊より」(全7回、12月12~19日)。

43(昭和18)年=「湄公河〔メコン川〕溯行記 西貢〔サイゴン〕より東甫塞〔カンボジア〕の首都プノンペンまで」(1月1日)、「アンコールより」(1月6日)、「禊ぎの民族 カムボヂヤ人の生活」(全2回、1月16~17日)、「南方宗教工作とみいくさの原理」(全2回、1月19~20日)、「アンコール偶感」(2月7日)、「クメールの文化 カムボヂア雑感」(全2回、2月27~28日)、「アンコール鳥瞰」(3月2日)、「カンボヂアの劇と舞踏」(3月3日)、「仏印より泰へ」(全4回、3月4~24日)、「南方雑筆」(全35回、6月25日~8月21日)。

これらの記事の見出しを眺めただけでも、カンボジアの情景が伝わってこよう。

角田は、短歌をたしなんでいた。現地の模様を詠んでいたので、一部を紹介しよう(「アンコール鳥瞰」43年2月7日)。

民の幸とかかはりもなきおごりもて民は疲れて国亡びけむ

七頭のナーガに白く月さしてアンコールの石にわが影長し

後者は、遺跡の情景を詠み情緒あるものだが、前者は衰亡したアンコール王朝を念頭にしたものである。この2年後に日本は敗戦となる。

おわりに

敗戦直後の虚脱の心境をつづった角田の短歌が、中外日報に掲載されている(「民われら」45年8月18日)。この時、アンコール王朝の亡国を想起したかもしれない。

その後、病気の静養のため退社したが、福見涙草によれば「ふとしたいたつきに急逝」したという(前掲、『激動の宗教界を回想』)。

角田の来歴には、未詳なことが多く現時点で判明した事項について述べてきた。角田は、画家で教員の経験があり、中外日報社に入り挿図を担当したという、興味深い経歴の人物である。角田のような人物が、活躍できたのは、やはり真渓涙骨の度量が広かったからである。

角田素江の存在を通じて、当時の中外日報の社風の一端を知ることができよう。