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東アジア梵鐘の様式と技術 ― 日本鐘に朝鮮鐘の技術導入か

元・京都橘大教授 五十川伸矢氏

2016年6月15日付 中外日報(論)

いそがわ・しんや氏=1950年、兵庫県生まれ。京都大大学院文学研究科修了。考古学専攻。京都大埋蔵文化財研究センター助手を経て、京都橘大文学部教授。2006年~16年3月、同大現代ビジネス学部教授。鋳造遺跡研究会を1991年から主宰し、同会会長。
はじめに

童謡「夕焼け小焼け」に「山のお寺の鐘が鳴る」と歌われるように、梵鐘は日本人にとって時間や季節を感じさせる重要な風物として定着しており、除夜の鐘を聞かないと新年が来たという実感が沸かない人も多いだろう。この梵鐘は、仏教の功徳を広めるための梵音具として中国で発明されたものである。梵鐘研究を開拓した考古学者・坪井良平氏(1897~1984)が一生をかけて、現物にあたって調査を行い、その変遷や鋳物師の研究をまとめられた成果は、日本考古学の精緻な研究の金字塔とされている。

筆者は、今から三十数年前に京都大学吉田キャンパス内の遺跡発掘において、平安時代の梵鐘鋳造遺跡の調査を偶然に担当したことがきっかけとなって、日本各地の同様の鋳造遺跡から日本鐘の鋳造技術についての研究を続けてきた。そして、坪井氏による先行研究に導かれつつ、この10年間、新しい視点で現存する梵鐘を観察してきたので、その成果の一端を紹介させていただきたい。

梵鐘の様式と技術

梵鐘をどのようにみるかは、それぞれの人々の梵鐘に対する関心のもちかたや、その得意とする分析方法によって異なっていてしかるべきであるが、筆者は、梵鐘を様式と技術の二つの要素によってとらえることとする。

まず、梵鐘の様式とは、梵鐘の鐘体の寸法や形態、鐘体の表面に付されている凹凸の装飾、および文字による銘文など、梵鐘の外形を形成している数多くの装飾的な要素の集合体をいう。これらの装飾的な要素は、坪井氏が、日本鐘や朝鮮鐘について網羅的に資料を集成され、その梵鐘の年代や鋳物師の特徴として抽出された基本的な要素である。

一方、梵鐘の技術とは、鐘体を形成している金属材料、鋳型を作る造型方法、金属を溶解して鋳型に流し込む鋳造方法など、梵鐘製作に関わる様々な要素である。これらの技術的な要素のうち、筆者は、外型の分割法、溶かした金属を鋳型に流し込む湯口の形態について分類し、個々の梵鐘について、それらの技術を確認する作業を続けてきた。

日本鐘の様式と技術

坪井氏の研究によれば、日本の最古の鐘は、7世紀末に作られた京都市の妙心寺鐘、福岡県太宰府市の観世音寺鐘、奈良県葛城市の当麻寺鐘などがあげられる。それらは撞座(撞木が当たるポイント)を鐘身の高い位置にもち、華麗な装飾の帯をもった大型品であることが特徴である。鐘身部分の外型は上下に横分割しており、ドーナツ状の鋳型を2段重ねていると言えば理解しやすいと思う。また、2個の湯口が笠形(天井部)の端部に位置している。奈良時代の鐘は、先の初期鐘とあまり変わらないが、平安時代に入ると、徐々に撞座が低い位置に移り、乳郭と呼ばれる装飾のあるものも現れた。外型分割は変わらないが、2個の湯口は笠形の上部に設定されるようになる。平安時代中期に位置づけられる奈良県五條市の栄山寺鐘は、こうした特徴があるとともに、序と銘を完備した陽鋳銘文をもつ名鐘である。

平安時代末期の12世紀後半になると、日本鐘は大きく変化する。鐘体もかなり小型化し、鐘体を懸垂するための龍頭と撞座の方向関係が変化し、撞座はさらに鐘身の下部へと低下してゆく。外型は、鐘身を3分割するものが基本となり、湯口が1個のものも現れた。神戸市の徳照寺鐘や京都府笠置町の笠置寺鐘などは、この時代の代表選手である。こうした変化は、鎌倉時代に定着してゆくが、これを坪井氏は「定型化」と呼んで、その後の日本鐘の基本形態ができあがったと評価されている。

日本鐘の湯口は、長方形を示すものが多く、A型(長方形の長辺の方向が龍頭の長軸と平行するもの)とB型(直交するもの)に分かれる。これは、鋳造工人(鋳物師)の流派の違いを示すもので、古代のA型は北九州または奈良の鋳造工人の癖、B型は京都や滋賀あるいは近畿北部周辺の鋳造工人の癖であろうと筆者は考える。

中国鐘と日本鐘

さて、日本鐘は、どこからやって来たのであろうか。前述のように日本の初期鐘は7世紀末ごろのものであり、中国では唐代である。こう言うと、多くの方々は、梵鐘は遣唐使によって日本にもたらされたのだろうと考えられるかもしれないが、そう簡単には言えないのである。

まず、当時の唐都で流行していた中国鐘は、日本鐘とはかなり異なった様式の「荷葉鐘」であり、中国南部に分布する「祖型鐘」が日本鐘の様式のもととなったことを坪井氏が解明されている。

また、筆者が中国や日本に残っている唐鐘の技術を観察した結果、古い唐代の祖型鐘の技術は、古代の日本鐘とは異なることがわかってきた。すなわち、日本鐘の外型は一貫して横分割法によって製作されているが、古い唐鐘の鐘身は縦分割法または一体構造で仕上げられている。縦分割法とは、桃太郎が生まれる時に、おばあさんが桃を包丁で上からスパッと切開するシーンを想起していただければよい。こんな鋳型分割法は日本鐘にはあり得ない。しかも、中国鐘の外型分割には縦横分割法もあり、日本鐘の様式の手本にならなかった唐代の荷葉鐘が、この縦横分割法によるもので、中国鐘の湯口の形態は、日本鐘のA型やB型の長方形とは異なって、C型の丸い形が基本なのである。

朝鮮鐘と日本鐘

このようにして、中国の唐鐘と日本鐘を、様式と技術において比較して、日本鐘成立に関する連絡を検討した結果、唐鐘と日本古代鐘が、技術において、すんなりとつながらないという事実を発見することとなった。そこで、視点を変えて韓国や日本国内に所蔵されている朝鮮鐘の技術を検討するという作業を行った。

日本鐘が「袈裟襷」と呼ばれる縦横の帯によって区画を設定しているのに対して、朝鮮鐘は、上下の帯の間の広い空間に、乳郭・撞座や天人などの単位紋様を一定の原則に沿って、独立して配置する点で大きく異なっている。また、その技術は、「失蠟法」といって、原形を蠟で製作し、それをもとにして外型を起こすという方法であると固く信じられてきた。このため、日本鐘と朝鮮鐘に、様式と技術の両面において近縁的関係を想定する人は、あまりいなかったと思われる。しかしながら、予断と偏見を捨て、実際に朝鮮鐘の技術を検討してゆくと、新羅鐘や高麗前期鐘のなかに古代日本鐘と類似する外型横分割法やA型湯口やB型湯口を発見することができた。なお、朝鮮鐘には外型縦分割法はみられない。

東アジアの梵鐘文化

このように、日本鐘は中国南部の鐘の様式を継承し、なおかつ朝鮮鐘の技術を導入して成立したという複雑な経緯を想定できる。このほか、唐末以降の中国鐘では、外型横分割法がきわめて優勢となってゆき、現代においても江南地域では、この横分割法によって梵鐘が製作されている。これは、唐末ごろに、中国鐘の技術に日本鐘や朝鮮鐘の影響があったためだろうと考える。

このように、東アジアの梵鐘は、互いに様式と技術において影響を与えつつ形成されてきたとみるならば、見えてくるものは東アジアにおける、頻繁で活発な文化交流の世界である。そこには遣唐使による文化導入や国風文化の興隆などの既成の歴史概念ではとらえきれない現象が存在するのではないかと筆者は考えている。これらについては先ごろ刊行した『東アジア梵鐘生産史の研究』(岩田書院)に詳述したので興味をもたれた方々は参照されたい。