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洛陽三十三所観音の再興に寄せて ― 衰退・再興の観音巡礼

京都府京都文化博物館学芸員 長村祥知氏

2016年5月20日付 中外日報(論)

ながむら・よしとも氏=1982年、京都府生まれ。京都大大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。専門は日本中世史。日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、2012年から現職。著書に『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015年)。

寺院は、その歴史においても、所蔵する資料においても、現代社会に果たす意義においても、様々な点で大変興味深い。

平成27(2015)年は、同17(2005)年に「平成洛陽三十三所観音霊場会」が結成されてから10周年の年であった。その名に「観音」を掲げていることからもわかるように、同会は、京都市内に所在する観世音菩薩を奉安する33の寺院・堂塔からなる。同会を構成する個々の寺院は深い歴史的背景を有し、特定の宗派に偏ることなく、総体として巡礼という信仰形態の対象となっている。

最近では「聖地巡礼」といえば、有名人の出演するドラマやアニメの舞台(となったロケ地・モデル地)を巡る人々の行動を指すことが多いが、本来「聖地」とは宗教的に神聖視された地を指す語であり、日本であれば寺社を巡り礼拝・参詣する行為こそが「聖地巡礼」だったはずであろう。少し前に「御朱印ガール」なる言葉が流行(?)したが、それ以前から、ひそかに御朱印めぐりを趣味としていた人も多いことと思われる。

寺院・神社等のいわゆる「パワー・スポット」複数を巡り歩くことで、所願成就や現世利益などの実現を祈念し、あるいは日常からの解放や歩くこと自体に楽しみを見いだす人々は、現代のみならず歴史上にもたくさんいた。西国三十三所観音や、弘法大師空海の旧跡とされる四国八十八カ所は全国的にも有名な巡礼霊場であろう。

とくに観音菩薩は、平安時代末期から確認できる西国三十三所をはじめとして、古くから巡礼の対象となりやすかった。西国三十三所のような広範囲ではなく、一定地域内の33の観音を巡礼するということも各地で行われた。埼玉県の秩父三十四所、関東地方の複数県にまたがる坂東三十三所は、西国三十三所と合わせて「百観音」巡礼の対象にもなっている。また近畿地方では滋賀県の近江西国三十三所がある。これら各地の観音巡礼札所は、室町時代に確認できるところもあり、江戸時代には定着していたようである。

京都においても、平安時代から7カ所前後の観音を巡礼するということが行われており、やがて33の観音を対象とする巡礼も行われるようになった。室町幕府奉行人の飯尾永祥が享徳3(1454)年に編んだ『撮壌集』に「洛中洛外」の三十三所観音が列挙されている。しかし、この数年後の応仁元(1467)年には、京都の中心も戦場となったことで有名な応仁・文明の乱が起こり、その後に続く戦国の世にあって、京都の三十三所観音巡礼は衰退したようである。

江戸時代になって、京都の三十三所観音巡礼は再興された。柳原紀光が編纂した歴史書『続史愚抄』によれば、寛文5(1665)年、霊元天皇の勅願により、再興されることとなったのである。このとき霊元天皇(1654~1732)は弱冠11歳(数え歳なら12歳)。どのような政治的・社会的背景のもとに再興が果たされたのかは未詳な部分もあるが、このときの再興は衆庶にも大きな意味を持ったに違いない。金戒光明寺には、文化4(1807)年に施主木村氏が奉納した吉田寺(現在は廃寺)の寺号額が伝わっており、そこには「洛陽六番勅願所」と書かれている。この勅願とは、霊元天皇による三十三所観音再興時のことであろう。

寛文の再興後、旅行者等が手に取った京都の名所案内記には洛陽三十三所の記載があり、いくつかの寺院の前には今も「洛陽○○番」の石碑が残っていることからすれば、巡礼者も多かったようである。

しかし、明治維新やその後の社会の変化のなかで、再び三十三所観音巡礼も衰退した。平成洛陽三十三所観音霊場会のお坊様方にお伺いしたところ、大正・昭和の頃にも洛陽三十三所を再興させようという動きはあったらしいが、色々と条件が整わずに、定着には至らなかったという。平成14年頃に、当時30歳代の僧侶数名が原動力となり、中堅・長老層の僧侶の理解を得て、平成17年にようやく再興に至ったのであった。

こうしてごく簡単に歴史を振り返ってみただけでも、洛陽三十三所観音が再興と衰退を繰り返してきたことがよく理解されよう。再興と衰退は、三十三所というまとまりだけではない。巡礼札所を構成する個々の寺院もまた、歴史のなかで廃絶や移転を余儀なくされたのであり、本尊と寺宝と寺地・伽藍が過去のまま現代に伝わっている寺院はわずかしかない。現代でも寺院の維持・運営は大変だとよく聞くが、歴史上においても困難は度々あった。

今日、世界中から大勢の参拝者を集める清水寺も例外ではない。清水寺では、応仁・文明の乱で伽藍が焼失し、伽藍再建のために僧侶が奔走した。勧進聖の願阿が再興を呼びかけた「清水寺再興勧進状」や、柱の代金を寄付した人物を書き上げた「清水寺再興奉加帳」、寺外での絵解きによって参詣を呼びかけた「清水寺参詣曼荼羅」(京都府指定文化財)といった資料が伝来している。

さきほど、吉田寺の寺号額が金戒光明寺に伝わっていると記したが、それは江戸時代の洛陽三十三所札所であった吉田寺が寛文8(1668)年に廃壊した際、本尊吉備観音および関連の宝物を金戒光明寺に移したからであった。

同じく江戸時代に洛陽三十三所札所であった金山天王寺は、如意輪観音像を本尊とし、その縁起を記した「金山天王寺縁起絵巻」を所蔵していたが、明治7(1874)年に廬山寺に合併された際、観音と絵巻等の寺宝も廬山寺に移された。

平成の洛陽三十三所再興にあたり、江戸時代に札所であった吉田寺や金山天王寺にかわって、それぞれの本尊を受け継いだ金戒光明寺と廬山寺が平成洛陽三十三所観音霊場の札所となっている。

両寺の事例から、本尊の移動とともに寺宝も継承されたことがうかがえるが、同様の例は地域の寺院に多々見られる。前近代から近現代にかけて宗派や本山・末寺の関係が変わった寺院も多く、ある寺院に、別の寺院にあるべき古文書や尊像・宝物等が伝来していたとしても、後世に移動してきた可能性が大いにありうるのである。逆にいえば、現存する寺宝類が一見不可解なものであったとしても、様々な角度から基礎的な整理を含めて調査を進めていくことで、それらの移動がいかなる関係性に基づくのか等の、現代とは異なる歴史上の寺院の具体相を解明する糸口となろう。

さて、平成の再興10周年を記念して、平成27年9月~11月には、筆者の勤務する京都文化博物館で「再興10周年記念 洛陽三十三所―観音霊場の再興―」と題する展覧会を開催させていただいた。三十三所というまとまりはもちろんのこと、個々の寺院についても、維持が困難であったことや、勧進による伽藍再建や本尊の移転等によって再興が果たされていたこと、それによって寺宝が今日に伝わったことが明らかとなる資料を展示した。周知の名宝はもとより、これまで寺外で知られていなかった資料にも注目し、その調査成果とあわせて展示することができた。

引き続き今年度にも「洛陽三十三所2」展の開催を予定している(6月11日~8月7日)。

観音巡礼という、京都の地域文化の重要な一側面を調査し、その認知度を高める役割を少しなりとも果たすことができたのであれば、まことにうれしく思う。

改めて、平成の再興と、その後の10年間に尽力された皆様の熱意に敬意を表したい。