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人体(いのち)の商品化を問う ― HIV訴訟、和解から20年

ノンフィクションライター 島本慈子氏

2016年3月18日付 中外日報(論)

しまもと・やすこ氏=京都府立大文学部卒。雑誌記者を経てフリーに。著書に『砂時計のなかで―薬害エイズ・HIV訴訟の全記録』『戦争で死ぬ、ということ』『ルポ労働と戦争』『倒壊―大震災で住宅ローンはどうなったか』など。
未来のために「血液」を問う

振り返れば、出会いからとても長い時間が流れた。取材のために石田吉明さんを訪ねたのは1989年8月3日。真っ青な空が輝いていた夏の日の午後で、玄関で声をかけると、背の高い男性が少し足を引きずりながら現れた。

それは薬害エイズ事件――血友病患者が治療に使った血液製剤でHIV(エイズウイルス)に感染した事件――で、国と製薬企業の責任を問うHIV訴訟が大阪で始まった直後だった。私が取材した時点で、原告は石田さんを含めてまだ9人。彼は血友病を語り(足を引きずっていたのは出血の後遺症だった)、HIV感染を知った日の衝撃を語り、免疫を司るヘルパーT細胞の数が「砂時計の砂がサラサラ落ちるように」減っていく現実と、それとともに近づいてくる死への恐怖を語った。そして訴訟の目的をこう語った。

「決着がついたとき、原告は一人もいないかもしれない。だからこの裁判は、僕らの世代じゃなくて、100年くらい後の人たちへのおみやげ。ずっと後の世代のことを考えて、いま『血液』を問い直す、それが我々の裁判です」

血液を問う――それはすなわち「人体の商品化の是非を問う」ということ。4年後に再び取材したとき、石田さんはこうも語った。

「血液って臓器のひとつ。献血で集めたものを、感謝しながら使わせてもらわんとあかんのに、血液が商売の道具、儲かる物品に換えられて、そのツケを払ってるのがいまの僕ら」

売血の大河に現れたウイルス

HIV訴訟は89年5月に大阪、10月に東京で提訴され、96年3月に和解が成立した。改めて事件を振り返ると――。

血友病患者は、出血を止めるために血液凝固因子製剤を使う。その原料はほとんどが売血だった。

売血のはらむリスクは大きい。まず献血に比べ、売血は病原微生物に汚染されている可能性が高い。また売血者は低所得層に偏り、貧しい人々が頻繁に血を売って健康を害し、さらなる貧困へ追い込まれていくという問題もある。

その実態を踏まえて、75年4月17日、厚生大臣の私的諮問機関である血液問題研究会が「医療に使う血液は、血液製剤を含めて、すべて献血でまかなうべきである。その体系を早急に確立しなければならない」と具申した。ところが13日後、その具申を覆す事態が起きる。

4月30日、ベトナム戦争が終結。第2次大戦のときに開発された血液製剤が、実戦で大量に使用されたのがベトナム戦争だった。その戦争が終わったとき、米国には大小の血液産業が林立しており、戦場という大消費地に代わるマーケットが必要だった。

翌76年、日本の厚生省は売血によるプール血漿(人の血漿を何千人何万人分も混ぜ合わせたもので、血液製剤の原料となる)の輸入を承認。米国の売血が日本へ流れこんできた。だがそのとき、米国内では未知のウイルスが活動を始めていたのである。

それはまず、男性同性愛者の免疫不全として報告された(81年6月5日、米国CDC『MMWR』)。次に麻薬中毒者、麻薬中毒者と性的関係のあった女性、血友病患者……。全員が免疫不全に陥っていたが、原因がわからない。日本では「『免疫性』壊す奇病、米で広がる」と報じられた(82年7月20日、毎日新聞)。

この奇病にエイズという名前がついたのが82年7月27日(米国公衆衛生局の会議)。フランスと米国の研究者が原因ウイルス発見を公表したのが83~84年。ウイルス名がHIVとして統一されたのが86年。

そのときには血液製剤による感染が世界中に広がっていた。HIVに感染した日本の血友病患者は約2千人と言われた(現時点の調査では約1500人)。

大きな教訓は「自然」への畏れ

血友病患者がHIVに感染していく過程で、製薬企業には許しがたい情報隠しがあり、国は対策を怠って被害を拡大させた。激しい裁判闘争の結果、国と企業の責任が認められて和解が成立した。

しかし、薬害エイズ事件で最も注目を集めたのは血友病治療の指導的立場にあった故・安部英医師だろう。和解の成立後、安部氏は刑事告発された。

その当時、私はHIV訴訟をめぐる人間ドラマを描いた『砂時計のなかで』(河出書房新社刊)を執筆中だったが、関係者に宛てて、こんな手紙を書いた。

「安部英逮捕後の報道は異常でした。安部氏の責任を追及することは当然ですが、『安部氏さえいなければ、犠牲者はひとりも出なかったのだ』と言わんばかりの報道は事実を曲げています。ことを単純化せず、複雑な真相を複雑なままに見据えることが、本当の薬害再発防止になると私は思っています」(96年12月10日付)

現在も、特に極端に走ったテレビ報道の影響で、「83年に研究班長になった安部氏がひとりで全員を感染させた」と思い込んでいる方がおられるだろう。

だがそれは事実ではない。たとえば東海地方のある県立病院で患者の保存血液を検査したところ、82年の時点で11人がHIVに感染していた。82年は、米国CDCが血友病患者の免疫不全を初めて発表した年である。

では、その人たちの感染は回避できない天災だったのか? いや、回避する方法はあった。75年に出された血液問題研究会の具申。あの具申に沿って血液製剤が国内の献血で作られていたら、彼らの感染はなかっただろう。

血液は自然の一部。自然には「人間が把握できない何かが潜んでいる」という畏れ。宗教にも通じるこの畏れの感覚は、次の薬害を防ぐためにも、常に想定外のことが起きる自然災害などに備えるためにも欠かせない感覚だと思える。

いま――手渡された問いかけ

HIVに感染した血友病患者は病気に苦しみ、差別と偏見に苦しんだ。HIVの感染力はごく弱く、普通の日常生活ではうつらないのだが、エイズを恐れる世間は、HIV感染者を恐れた。

病院では診療拒否が相次いだ。上司に感染を告げたとたん、解雇された人がいた。店の客足が途絶え、暮らしに行き詰まった人がいた。

訴訟の原告だったアキラ(仮名、故人)は、医師にHIV感染を告げられたとき、「がんだったら良かったのに」と思ったという。「がんは人にうつらないから自由に言える。僕らは何も言えない」

病者への差別と偏見がひどいゆえに、被害者が被害を語ることもできない。この現実を見た石田さんは法廷でこう訴えた。

「そこには打ち震えている感染者、つまり人間がいる。/血友病患者2千人の全面解決もさることながら、難病と共に生きる社会を作っていくことが全面解決ではないか」(92年2月13日、大阪地裁、石田吉明証人尋問)

この尋問の後、自ら予告していたとおり、石田さんは裁判の決着がつく前に亡くなった。HIV訴訟原告中の死者は、昨年10月時点で693人になっている。

人体を商品化しない――この理想は実現されたのだろうか。

血液製剤に関しては、2002年に血液法が制定され、献血による供給がほぼ達成されている。しかし、あたかも血液に代わるかのように「儲かる物品」として登場したものがある。生殖細胞である。

留学中の米国で、報酬2500ドルで卵子を提供する日本人学生。1回3万円で精子を提供する男性。契約金150万円で精子バンクに登録し、リストを見て精子を選ぶ女性。新聞にはこんな事例が山ほど出てくるが、共同通信の次の記事を見たとき、私は思わず薬害エイズの原点=HIVの混入したプール血漿を連想してしまった。

・06年。米国で5人の子どもが稀な血液病を発病。医師が調べると、5人とも、精子バンクの同一ドナーから生まれていた。

・09年。米国で精子バンクの同一ドナーから生まれた子ども9人が同じ心臓病と診断された。

生殖細胞の商品化は将来に何を生み出すのか? それについて考え抜き、警鐘を鳴らすことは、哲学者そして宗教者の重要な仕事ではないだろうか。

HIV訴訟の和解から20年。「裁判の終わりを見ることはできない」と知りながら立ち上がった彼らが問いかけたことは、いまも私たちの問題として目の前にある。