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千年の歴史超える長谷信仰 ― あらゆる願い成就する霊験仏

大阪大谷大准教授 横田隆志氏

2016年2月19日付 中外日報(論)

よこた・たかし氏=1970年生まれ。神戸大文学部卒。同大大学院博士後期課程修了。大阪大谷大文学部准教授。専門は鎌倉時代の伝承文学で、特に総本山長谷寺の観音霊験譚を研究。著書に『現代語訳長谷寺験記』がある。
◆『長谷寺験記』の成り立ち

真言宗豊山派総本山長谷寺(奈良県桜井市)は、日本の代表的な観音霊場として古来著名である。長谷寺の御本尊である十一面観世音菩薩は、現世・来世の願いをかなえる霊験仏として篤く信仰され、その歴史は千年以上に及ぶ。今年2月から3月にかけて、あべのハルカス美術館(大阪市)で「長谷寺の名宝と十一面観音の信仰」が開催されるなど、長谷信仰は現在も注目を集めている。

上下2巻52話収録

長谷寺では鎌倉時代、『長谷寺験記』という書物が編纂された。上下2巻、上巻19話、下巻33話の計52話からなる書で、長谷寺の十一面観世音菩薩に祈願をよせ、様々な御利益を得た人々の話が記しとどめられている。

同書上巻には、長谷寺建立の御由緒(第二話)や御本尊の頭頂部に据えられている頂上仏面の霊験譚(第十話)、長谷寺仁王門から本堂に至る登廊(第十五話)、登廊を登りきったところにある未来が鐘(第十四話)など仏像や建物等に関わる由来などが記される。境内に掲げられる案内板のいくつかは、本書に基づいて記述されたものである。

下巻では、長谷寺の御本尊に関する話に加え、長谷寺以外の寺院建立や仏像造立についての話も収められる。長野市にある新長谷寺や大阪府枚方市の久修園院(第一話)、西国三十三所第22番札所の総持寺(第十三話)、興福寺菩提院の児観音(第二十二話)などの話がそれで、長谷信仰の広がりがそこに反映している。

◆鎌倉時代の長谷信仰

『長谷寺験記』を読むと、ありとあらゆる願いの成就が祈られていた様子がうかがえる。皇位継承の望みがある一方で、貧しい身の上からの救済、病気回復、極楽往生、子の誕生、亡母の追善など、当時の人々が何を望み、何を幸せと考えていたのか、その息づかいが伝わってくるのである。中には、誰も風車を作ってくれる人がいなかったので、それを与えてくれるように祈った少年の話(下巻第二十九話)などもある。

後伏見上皇が願文

鎌倉時代、長谷寺では実際に様々な祈願がなされた。例えば、後伏見上皇は皇子量仁親王(後の光厳天皇)の立太子・即位を祈願する願文を伊勢神宮や長谷寺に送った。その一通、1326(正中3)年3月25日後伏見上皇自筆願文案(書陵部蔵伏見宮家文書、鎌倉遺文二九四四七号)で、後伏見上皇は、所願成就するならば今年中に「観音品三千三百三十三巻」を長谷寺の御宝前で転読するという願を立てている。

一方、北伊勢に拠点をおく藤原実重なる人物が、亡母追善供養のため、毎月18日に観音経を読誦するよう長谷寺僧に委嘱した記録が残されている。その期間は、1228(安貞2)年から1234(天福2)年に及ぶ。足かけ7年、途切れることなく、実重は追善供養の費用を遠く北伊勢から長谷寺に送り続けた(三重県四日市市善教寺蔵阿弥陀如来立像・胎内文書「作善日記」。『四日市市史』第十六巻別冊に本文紹介)。

皇族から庶民まで、社会の幅広い階層から、長谷寺の御本尊は篤く信仰されたのである。

◆『法華経』との関わり

『長谷寺験記』の話は、その多くが『法華経』観世音菩薩普門品の教えと関わっている。一例をあげれば、遣唐使の吉備真備が唐で野馬台詩という難解な詩を読むことを求められたとき、長谷寺の観世音菩薩が小さな蜘蛛に変化し、難題を出した唐の人々にわからないように真備の窮地を救ったという話がある(上巻第一話)。野馬台詩は詩の第5行の6文字目を起点として、迷路のように読み進む特殊な詩であるが、観世音菩薩が変じた蜘蛛は字を一つ一つたどることで真備に詩の読み方を教えたのである。

この話には、窮地にある人を救う観世音菩薩の慈悲の心と、その場にふさわしい姿に変化するという智慧の心がよく表現されている。この意味で吉備真備の話は、『法華経』の教えに忠実な内容をもっているのである。

『長谷寺験記』にはこのような話が数多く収められている。そもそも上巻の19話と下巻の33話という話の数自体が、観世音菩薩普門品の説く十九説法と三十三身に基づく。個々の話の表現という意味でも、あるいはそれらの話を編纂する意味でも、『法華経』は『長谷寺験記』の成立と深く関わっている。

◆長谷詣と『長谷寺験記』

ところで『長谷寺験記』は長谷詣の記録でもある。当時、平安京から長谷寺まで、片道3日はかかった。『源氏物語』に登場する玉鬘の一行などは、長谷寺に至るまで4日かかったとある。本堂で夜通し祈りをささげ、復路も3日かかるとすれば、長谷詣に1週間はかかることになる。それでも多くの人々が長谷寺に詣でたのである。

『長谷寺験記』下巻第二十八話には、陸奥国松嶋から来た法師や、河内国高安の女人、大和国葛上郡の俗人等が本堂に集って、共に祈りをささげていた様子が描かれている。

大量の灯火器出土

長谷寺に限らないであろうが、参詣者のほとんどは、歴史に名を残すほど顕著な事績を残したわけではない。しかし実際に多くの人々が訪れたことは事実である。1998年、奈良県立橿原考古学研究所が境内発掘調査を行ったとき、本堂西側の斜面で大量の土師器杯・皿類が出土した。

同研究所によると、これは基本的にすべて灯火器(油皿)であり、出土状況から考えて、参詣者らによる日常的な献灯が累積した結果と理解できるという(『奈良県文化財調査報告書第八十四集長谷寺』)。その深さはおおむね地下5メートルに及ぶ。つまり千年以上にわたって長谷寺に参り、灯明をささげた人々の祈りの痕跡が、文字通り層をなして地中に積み重ねられているのである。長谷寺の大きな御本尊は今も多くの檀信徒を迎え入れているが、そのすぐ脇には、長谷寺悠久の歴史を物語る遺物が静かに眠っている。

一昨年、刊行された『豊山長谷寺拾遺第五輯之一石造品』においては、参道脇にある一基の石碑について報告されている。これは1894(明治27)年、総受付から仁王門までの参道を整備した記念碑である。牌身部には鳥井駒吉(1853~1909)をはじめとした38名の名前が刻まれている。鳥井は大阪麦酒会社(後のアサヒビール)を設立し、初代社長に就いた人物である。他にも鉱山業・鉄道・紡績会社などを幅広く手がけた藤田伝三郎や、日本銀行大阪支店長や阪神電気鉄道社長をつとめた外山脩造など、碑銘には明治期に活躍した大阪の実業家がずらりと並ぶ。

石碑には、境内の参道が危なくないよう長さ30余間、幅3間にわたり、平らな石を敷きつめたこと、鳥井の呼びかけに応え、先に挙げた実業家たちがすぐに資金を出資したことなどが記されている。以後、長谷寺に歩みを運ぶ人は、実は鳥井たちの整備した敷石を通って御本尊のもとに詣でているのである。

『長谷寺験記』が成立してからすでに約800年の歳月が流れたが、長谷詣に寄せる人々の思いに変わりはない。長谷寺の御本尊、十一面観世音菩薩は、これからも多くの人々の思いに耳を傾けてくださることだろう。