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弘法大師少年の日 空海は大峯山に登っていた

奈良県立橿原考古学研究所長 菅谷文則氏

2016年1月13日付 中外日報(論)

すがや・ふみのり氏=1942年、奈良県生まれ。68年に奈良県教委文化財保存課技師に採用され、県立橿原考古学研究所研究職技師に。飛鳥浄御原宮跡や法隆寺、唐招提寺、大峯山寺など多くの発掘調査に携わる。95年に滋賀県立大教授、2008年に同名誉教授。2009年4月から現職。山の考古学会元会長、奈良県山岳遺跡研究会顧問。
未解明多い少年期

昨年は弘法大師空海が高野山を開かれてから1200年にあたる仏縁の年だったので、4月から5月にかけて大法要が行われた。

空海が高野山を開くことができたのは、弘仁7(816)年6月19日に嵯峨天皇に上表して高野の地を賜ったからだ。このことは、上表文の全文が「続遍照発揮性霊集補闕抄巻9」に残されていることからはっきりとしている。上表文の読み下し文は、次のとおりである。

「空海少年の日、好んで山水を渉覧して、吉野より南に行くこと一日、さらに西に向つて去ること両日程にして、平原の幽地あり。名づけて高野という。計るに紀伊国伊都郡の南に当れり」

高野の地を賜ることを願う上表文は、嵯峨天皇の勅が下され、認められた。こうして、現在の高野山の地は真言の霊場となったことは、よく知られている。

上表文には、「空海少年の日……」と書かれている。少年の日がいつかについては議論があり、確実な年齢を決めることができない。それを知る手掛かりの一つは、律令制では男子は20歳から60歳までが正丁として税を支払い、兵となり、力役が課せられた。立派な大人である。数え年20歳以下は少年となる。

仏門に入る前の空海は、佐伯眞魚という名前であった。空海は延暦10年に律令制の官吏養成の大学に入っている。大学入学の年齢は、やはり令によって13歳から16歳と定められていた。空海の経歴は不明の点が多い。確実な史料では、上表文による少年の日から、遣唐使の留学生となる直前の東大寺における授戒まではよく分からず、議論が多い。この小文はこのことを議論するものではない。空海少年の日に、吉野から南へ1日、さらに西へ2日進んだことによって、高野の地に到着していたということについて、私の意見を述べたい。

従前から、弘仁7年の上表文の後半、つまり高野を賜ったことは、事実として認められていたが、前半についてはほとんど議論されることはなかった。

平城京から長岡京に遷都されたのが、延暦3(784)年であり、この前後に空海は大学に入学している。空海少年の日は、まさにこの頃であったといえる。ところが、上表文による高野への出発地点は吉野である。これまでの歴史資料では、吉野を起点としてから南へ1日の解釈ができなかった。吉野の地が、吉野川であれ、吉野離宮の宮滝であれ、その南は果てしなく続く山また山であった。この吉野山地を修行の場とする修験は、早くとも9世紀以降に始まったと考えられていたのである。

昭和58~59年に吉野山から二十数キロも南の大峯山(海抜1719メートル、古くは金峰山)の重要文化財大峯山寺本堂の半解体修理が実現された。その修理工事に合わせて、本堂内陣と外陣の地下発掘調査を実施した。その結果、大峯山頂に奈良時代の天平末から天平勝宝(749~757)頃には、確実に宗教施設が形成されていたことを確認できた。西暦900年頃には、現在の大峯山寺本堂の外陣の中央に方形に石を組んだ護摩壇が造作されていた。その後も、わたしたちは吉野山から熊野までの修験の奥駈けの考古学調査を進め、多くの新しい事実を確認した。

大峯山頂から、海抜1700~1800メートルの山稜を南へ、ほぼ9時間から10時間で弥山(1895メートル)に達する。そこでも8世紀、つまり奈良時代中頃の土器類が出土したことを確認した。吉野から弥山までの山稜には、奈良時代中期には、宗教活動が行われていたことを考古学の調査によって確かめることができたのだ。

類例ない出土品も

大峯山頂での奈良時代の出土品のうち、もっとも注目すべきは、奈良三彩(表面に緑、白、褐色の釉薬をほどこした陶器)の破片であり、ガラス製の経軸端(巻物式の仏典の軸木上下に嵌め込んだ装飾品)である。奈良三彩片は、奈良時代の首都である平城京域においても、大寺と高位の貴族の邸宅のみから出土している。一種のステータスを表す陶器であった。ガラス製経軸端は、出土品は大峯山頂出土を除いて一例もない。正倉院にのみ伝えられている。

この類例のきわめて少ない出土品は、奈良時代中期に吉野から大峯山頂までの急峻な宗教の道を開いたのは、木樵でも狩人でもないことを示している。もちろん、木樵や狩人の細径を利用したことは十分に考えられる。平安時代初期、つまり9世紀初頭の吉野は、現在の吉野山から、さらに高い奥千本のあたりであったことも、出土品から確認できた。

再び、空海の上表文に戻ることにする。伝承によると、空海は大安寺僧勤操について、虚空蔵求聞持法を教えられたという。それは大学に入る前の少年の日のことであったらしい。それよりも30~40年前には、すでに大峯山への宗教の道は形成されていたのである。空海はその道をたどったと推認することは、何ら問題がないように思う。

大峯山の開山は、役小角であるとされている。江戸時代の1799年には光格天皇から、神変大菩薩の号を勅諡され、今日でも大峯を中心とする修験の修法においては、名号をいくどもいくども念じる。ただし、全国的には、役行者または、行者の名の方がよく知られている。役小角は『日本書紀』の次に勅選された『続日本紀』文武3年5月24日に衆を惑わしたという罪名で捕らえられ、伊豆に流されたと明記されている。そして、翌年になくなり仙人となり、仙界に移ったという。

山の考古学研究会

どのようにして仙人となったかについては、『日本霊異紀』に書かれているのが早い。大和の葛城山で修行したのち、吉野の金峯山に至ったことなどが、詳しく記されている。『続日本紀』は、797年にできている。『日本霊異紀』は弘仁年間の著述とされ、その時間間隔は20年に満たない。これ以後は、役小角が金峯山の開山となり、宇多上皇、藤原道長・頼道・師道らの登山修行となる。院政期の大峯登拝つまり御岳詣は、都の一大イベントとなっていた。

従前の修験研究、ひいては日本仏教史研究では、藤原道長以前の大峯山登山は、伝承の域を出ないものとされていた。大峯山の考古学・美術史研究は、昭和12年に東京帝国博物館から刊行された『金峯山経塚遺物の研究』の石田茂作、矢島恭一両氏の研究で末法思想による埋経を中心に論じられたからである。考古学では昭和40年代以前は、奈良時代と平安時代の土器の識別ができなかった。考古学が未発達であった。今日ではそうではない。わたしたちは、『山の考古学研究会』を組織して、全国各地の霊山といわれる山々の考古学研究を進めている。多くの山が、奈良時代に早くも人々が登山していたことを確認した。大峯山脈の研究はその成果の一つであった。

ふたたび空海に戻ると、空海は讃岐から上京して、仏教と出合ったのち、まもなく大峯山、当時の金嶺(かねのみたけ)に登り、木樵か狩人などの先導のもとに、西に2日間を歩き、高野山に至ったと思う。空海の上表文の前半を、考古学による大峯開山史を用いて解釈すると、上表文の「少年の日」から高野山を賜るまでが理解できる。上表文は、同時代の人の目や耳に触れるものであり、虚偽を書くことは許されなかったと考えるべきで、少年の日の吉野から高野への記事も実事としてよい。空海研究の一点を考古学から解釈したい。