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西田幾多郎と『教行信証』―「聖典」各所に書き込み確認

真宗大谷派・親鸞仏教センター研究員 名和達宣氏

2016年1月6日付 中外日報(論)

なわ・たつのり氏=1980年、兵庫県生まれ。大阪大文学部(倫理学専修)卒業、大谷大大学院修士課程(真宗学専攻)修了。真宗大谷派宗務所・学校教育幹事を経て、現職。専門は真宗学・近代日本思想史。主な論文に「西田哲学と親鸞教学―『逆対応』の可能性」など。
晩年深く読み込む

西田幾多郎(1870~1945)という名前を聞けば、おそらく多くの人が第一に禅とのつながりを連想するだろう。確かに、若き日の西田が全身を挙げて打坐参禅に取り組んだことは、「寸心」という居士号とともに有名であり、自らもその哲学の背後に「禅的なるもの」を認めている。その一方で、生涯を通じて浄土真宗とも深い関わりをもっており、そのことが近年ことに注目されつつある。

西田は石川県の熱心な真宗門徒の家に生まれたため、幼少の頃より『歎異抄』や『御文』などの聖教に親しんでいたという。とりわけ『歎異抄』への思い入れは強く、東京が空襲の時、燃える街を眺めて「一切焼け失せても『臨済録』と『歎異抄』とが残ればよい」と発したことや、「親鸞の思想に入るには『歎異抄』が一番いいと思っている」と述べたことなどが弟子の追憶によって伝えられている。

また、青年時代には稲葉昌丸や暁烏敏、佐々木月樵など、同時代を代表する真宗大谷派の僧侶たちと親交を重ねていたことも知られる。そして、ある講演の中で、近代真宗教学の源流と目される清沢満之を指して「明治の哲学界で最も尊敬すべき人物」と称揚していたことは、近代日本の思想史を語るうえで見過ごすことのできない事実と言えよう。

親鸞思想との関わりをめぐっては、先に挙げたような追憶が残されるほか、代表作の『善の研究』(1911年)をはじめ、随所に引用が見られるため、従来の研究ではもっぱら『歎異抄』を中心に考究が繰り広げられてきた。ただし、『歎異抄』は親鸞思想のエッセンスとも言うべき語録のつづられた重要な聖教であるが、あくまでも門弟によって編まれたもので、親鸞自身の著作ではない。

一方、親鸞が自らの実存的な問いをもって著したのは『教行信証』であるが、それについては目立った引用がないばかりか、晩年(43年5月)になっても手紙の中で「教行信証などよみにくくてまだよくよみませぬ」という感想を述べているため、「それほど読み込まれてはいない」と見なされるのが大勢であった。

ところが、そのような感想を述べた直後、西田は同郷の親友・鈴木大拙を通じて山辺習学・赤沼智善著『教行信証講義』(全3巻)のことを知り、大拙から借り受けた後、自らもそれを購入している。この書は100年前の刊行以来、真宗教学の間で最もよく読まれてきた『教行信証』解説書の一つであるが、西田の使用していたものが晩年の執筆活動にあたった鎌倉の別荘に現存する。

その遺宅は、西田の没後、遺族より学校法人学習院に寄贈され、現在は西田幾多郎博士記念館――通称「寸心荘」――として在世時の空気を今日に伝えている。筆者は一昨年(2014年)、学習院の協力のもと、西田晩年の思索の底に流れる親鸞思想を発掘すべく、寸心荘に所蔵の『教行信証講義』をはじめとする真宗関連史料の調査を行った。すると、同書以上に、西田が『教行信証』を読み込んでいたことを裏付ける重要な証拠を発見することができた。それが『聖典 浄土真宗』(明治書院)である。

この聖典は、西田自身が日常的に読み開いていた様子が窺われ、外装の使用感が甚だしいばかりか、内部の至るところに書き入れや傍線、読み込まれた跡(手垢)を確認することができる。そして、それらの痕跡が集中して見られるのが、実は『教行信証』部分(特に「信巻」)である。加えて、書き込まれたメモの内容は『教行信証講義』の解説とほぼ重なる。そのため、西田がこの書を参照しつつ読書を進めていたことが判明するとともに、親鸞思想のどこに共鳴したのかを具体的に知る指標にもなるのである。

それではなぜ、西田は最晩年に至って突然『教行信証』の読書に踏み切ったのだろうか。もちろん『教行信証講義』という良き解説書とめぐり会えたことが大きな要因になったことは間違いないが、それ以上に重要なのは、西田最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945年)が、親鸞の思想に深い共鳴を示した宗教論であったという事実である。

この論文は、太平洋戦争のただ中で「小生最後の考え」として著された宗教論であるが、そもそもの発端は「浄土真宗の世界観というものを書いてみたい」と思い立ったところにある。その大きなきっかけとなったのは、44年の暮れに、弟子の務台理作から『場所の論理学』という哲学書が届けられたことである。西田はこの書の中で展開される「場所的対応」という概念から着想を得て、最後の宗教論の中心概念となる「逆対応」を導き出すのであるが、時を同じくして、『教行信証』の思索世界に沈潜し、真宗の名号論を自らの論理のうちに吸収していったことが窺われる。と言うのも、その後、西田は務台と頻繁に手紙を交わしていくことになるが、その中で、大拙の名号の論理(『浄土系思想論』)への共感や、田辺元の「懺悔道」(後に『懺悔道としての哲学』として出版)への反感を通じて、常に話題の中心にのぼったのは名号であった。

そのためであろう、寸心荘蔵書の『聖典』所収の『教行信証』部分に残された書き入れは、特に名号と信心の関係について述べた箇所に多く見られた。例えば「信巻」の中核をなす「三心一心問答」の中の「至心則是至徳尊号為其体也(至心は則ち是れ至徳の尊号を其の体と為せるなり)」という一文に傍線を引き、さらには「六字名号」というメモが書き込まれている。そして、このような思索は「場所的論理と宗教的世界観」中の「仏の絶対悲願を表すものは、名号の外にないのである」といった論述に少なからず反映されていると考えられるのである。

「絶対悲願」という言葉にも見られるように、西田哲学を貫くものは「悲」である。それが自らの身に自覚されたときは「悲哀」と呼ばれる。そして、西田は「悲哀」を「自己矛盾の事実」とも言い換え、さらにはそれを「哲学の動機」と位置づける。私たちはこの世界で生きていくうちに、必ず「矛盾」というものに衝突する。それは私たちの存在そのものの構造に根差しているため、如何ともすることのできない問題である。しかし、西田はその自力無功の自覚に伴って生じる悲しみこそが「哲学の動機」であると見定めたのである。

悲歎の言葉に○印

それゆえ西田は、親鸞の悲歎の言葉にも多分に共鳴を示している。『教行信証』「信巻」の「三心一心問答」において親鸞は、歴史を貫き迷い続ける一切衆生と、それを悲しみ傷まずにはおれない大悲心との対応関係を確かめた後、それにもかかわらず如来の大悲に背き続ける自身に対して「悲しき哉、愚禿鸞」と悲歎する。言うなればそれは自己矛盾的なる存在の事実に対する悲しみである。そして西田はその言葉の上欄に――おそらく深い共感を込めて――◯印を付けているのである。

若き日の西田が随想「愚禿親鸞」(11年)を著し、「愚禿」という名のりに「宗教の真髄」を見いだしたことはよく知られるが、「愚禿」とは親鸞が悲歎を吐露する時の名のりであり、西田が親鸞と出会った場所とも言える。そして何よりも、「愚禿釈親鸞」という名のもとに著された書――それこそが『教行信証』であった。