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いのちの終わりを見つめ合う~医療者と仏教者の対話

浄土真宗本願寺派延命寺住職 德永道隆氏

2015年12月23日付 中外日報(論)

とくなが・どうりゅう氏=1967年生まれ。広島市佐伯区・浄土真宗本願寺派延命寺住職。貴船原少女苑教誨師、県立広島病院緩和ケア科ボランティア。
公開講座の開催

10月3日に浄土真宗本願寺派本願寺広島別院共命ホールにおいて、ビハーラ安芸主催の公開講座「いのちの終わりを見つめ合う~医療者と仏教者の対話~」が開催された。

全ての人に訪れる生老病死、そして現代は全ての人が何らかの形で医療に関わっている。その現状を踏まえて、いのちに関わっている医療者と仏教者が対話することによって、多くの皆様と、特にいのちの終わりについて見つめ合おうという企画であった。この公開講座は、両者がそれぞれの提言を出し、さらにディスカッションをするという内容であるために4時間に及ぶ講座であった。

荘厳な三帰依文の唱和に続き、まず仏教者の基調講演として、鹿児島の本願寺派善福寺住職であり、南風病院緩和ケア相談員で20年以上にわたり僧侶として病院に関わってきた長倉伯博氏が、「どうして坊さんが病院に?」と題して、病院に出向くことになった経緯や実際の患者や家族との関わりを話した。

医療者の基調講演としては、広島の緩和医療を推し進めた第一人者である、広島県緩和ケア支援センター長の本家好文氏が、「人生の終末期に寄り添う」と題して病院での患者を取り巻く状況の解説、多くの看取りを通じての提案である、看取りの文化の再構築など医療者として終末期に寄り添ってこられた現状を話した。

これらを受けて、パネルディスカッションでは龍谷大学特任教授の早島理氏をコーディネーターとして、訪問看護師の渡辺友規氏、そして筆者が登壇し、互いにいのちの終わりについて議論した。292名の参加者があり盛況であった。

なぜ公開講座を

筆者が緩和ケアの病棟に宗教者のボランティアとして関わって5年が過ぎた。毎週のカンファレンスへの参加や、患者・家族への介入も増えつつある。患者・家族への介入は、直接の依頼(僧侶と話がしたい)と主治医や看護師からの促し(この方には宗教的、あるいはスピリチュアルなケアが必要と判断)と半々くらいである。悩みながらも、「いのちを見つめる縁」を頂いている。

ただ、恐らく県内では医療者と協働してケアに当たっているのは筆者以外では耳にしていない現状がある。そこで、何か仏教者がケアをしていくことに対する広がりにつながる啓発活動が必要と考えていた。そこに、早島氏、長倉氏が昨年北海道で同様の講座を開かれた経緯があり、また薦めも頂いたのである。広島での開催に筆者も期待をした。

医療者として

本家氏は、長年の緩和医療の中で多くの患者の看取りをされた。その見地よりこの度、宗教者や一般の方に向けた提言として、「看取りの文化の再構築」を掲げられた。それは次の5項目よりなる。

①「死」は、すべての人に起こる正常な現象である②死を迎えるまでの身体の苦痛を緩和するのが医療の役割であり、死を阻止するのが役割ではない③死を病院(医療者)から取り戻す④病院死が多く、看取り体験者が少なくなった。死後でなく、近親者に「看取りに参加」してもらう⑤宗教者も「看取りに参加」する必要がある。

死を忌避する文化への批判、患者・家族の主体的な看取りへの関わりの促し、そして、宗教者の参画と提示をされたのである。これを聞くと、宗教者への期待も感じられる内容であった。実際、この期待があって筆者は3年半ほど本家氏の勤める病棟に身を置かせていただいた。

厳しい意見

しかし、ディスカッションに移ると様子は一変したといっても過言ではなかった。

筆者の発題を聞いた後での本家氏のコメントは、「やはり僧侶と一緒にやれる気がしない、話が説教調でなじめない」という意見があり、また訪問看護師の渡辺氏からは「何も病院に来なくても、お寺があるのだから地域での活動があるはずでは」という意見も出された。

これは、打ち合わせの時から言われていたことなので、私には驚きはなかったのだが、聴衆の前での意見であったため仏教者に対する何かの「憤り」を感じた。その背景に何かあるのだろうか。

やはり医療者、特に看取りに関わっている方にとって、日常が全人的ケアを目指して苦労をしているのに、そこに仏教者に何ができると言うのですか、という問いかけがあるように感じた。

医療者の「知」 仏教者の「理」

そのまま議論としては平行線で、会場の僧侶からの「どうしたら病院で活動できるか」との問いにも同様で、「何ができるかはっきりしていただかないと」「僧侶という立場を捨ててこられないとちょっと……」など、この度の講座開催のテーマでもある「仏教と医療の協働」ということには程遠い議論であった。

ある学会で医師が、「医療に宗教者が必要だと感じている医療者は、日本の場合1割くらいだろう」という話を聞いたことがある。そうだとしたら、この厳しい意見は、登壇いただいた2氏の個人的な感覚だけではないだろう。つまり、ほとんどの医療者には理解されていないということになる。

私のささやかな経験からすると、個人的に何かの信仰を持つ(あるいは自分の死についての思いを表出する)医療者とはかなり話をすることが多く、また協働していこうという感覚も持っているように思う。

逆にそうでない場合は、何となく一緒にやっているという感じがある。もしも、医療者という立場だけならば、医学としてのとてつもない「知」の中に「慈悲の徹底しない一人の人間が、仏教者という立場で共に悩みながらケアしていく」という感覚は理解しがたいものであろう。

仏教の説く縁起思想である「互いが依存しあって生きている」という「理」は、関わろうとする個人が主体的に内面を見つめながらしていくケアであり、それは、医学でいう「知を持って提供していく」ものとは違いがあるので評価しにくい面がある。ならば、これから「仏教と医療の協働」には何が必要だろうか。

医療者へのケアと仏教者の研鑽

これは全く私見にすぎないが、この度の講座を契機に改めて考えたことが2点ある。

それは、ケアといってもまず医療者のケアからはじめなくてはならないということがある。もちろん、そのためにまず医療との関わりがなくてはならないという点はあるが、医療者も様々なことで悩んでいることには違いはないのである。

病院に関わって半年くらいの時、ある医師に廊下で呼ばれて「診察室に来てくれ」と声をかけられたことがある。「何ですか」と診察室で聴くと「あなたはここのスタッフをどう思うか」という質問をきっかけに、その医師が抱えるスタッフへの不満を1時間近く話されたことがあった。何か解決した訳ではなかったが、これは必要なことだと感じた。

またある時は、看護師が、亡くなった患者への後悔の念が離れず、いつも夢に出るという話を聴いたこともあった。この看護師には仏教の話を少ししただけで随分落ち着いたということもあった。

これらのことからも、医療者のケアをまずしなければ、その先の患者、家族のケアにはたどり着かない感がある。

そして、2点目は研鑽を深めていくということである。ここ数年、臨床宗教師のことが話題になることがあるが、私はその研修を受けてはいない。しかし、何らかの形で研鑽はかなりしていかないと医療者に信頼されないだろう。広島で現在、数人の仲間と研鑽の場を創る計画がある。いずれにしても、仏教者がどこまで本気でケアすることに力を注ぐかが問われている。

対話の継続

以上、この度の公開講座を開催したことによる一人の仏教者の思いを記した。科学的見地に立っていのちを診る医療と、無量寿のいのちを感じながら共に生かされていることを前提として観る仏教者との連携は、記したように、まだまだ模索の段階であることを拭い切れない感がある。

医療者も仏教者も門信徒も皆、死に逝く身であり、支えるいのちがいつかは支えられるいのちであることを今後も立場を超えて議論していくべきであろう。それが「いのちの協働」であることを願うばかりである。