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百萬遍知恩寺資料調査の現場から ― 両本尊の成立に新事実

京都美術工芸大非常勤講師 近藤謙氏

2015年12月18日付 中外日報(論)

こんどう・ゆずる氏=1972年生まれ。佛教大文学部卒。同大大学院で修士号取得。専門は仏教美術史、神仏習合美術。主要論文は「城陽市極楽寺阿弥陀如来立像について」「愛宕山勝軍地蔵信仰の形成」。

知恩寺では現在、多数の文化財に関して資料調査が進められている。私は幸運にもその作業を担当させていただいており、今回はその現場から見えてきた事実の一端を報告させていただきたい。

調査には以前に京都国立博物館も関与されており、本年にも大規模な調査が実施された。その成果は本年度中に正式な報告がなされる予定である。ここでは知恩寺の本尊・釈迦堂の釈迦如来坐像と、阿弥陀堂の本尊・阿弥陀如来立像に関して明らかとなった事実を取り上げよう。

なお本稿は京都国立博物館上席研究員・浅見龍介氏の調査所見に基づき、私が調査に立ち会わせていただいた際の知見を加えたものとなる。

○釈迦如来坐像

知恩寺はかつて賀茂社の神宮寺であったとされ、その本尊がこの釈迦像であったと伝えられる。創建地は現在、相国寺の境内となっている。1382年、相国寺建立に際して室町幕府より退去を命じられた知恩寺は、現在の元百万遍町へ移動した。さらに1585年、豊臣秀吉が寺町を整備すると荒神口北に再移転する。そして1661年、「寛文の大火」により伽藍を焼失。現在地に移って伽藍を再興、現在に至る。この間の焼失記録をまとめると次の通りとなる。

1467年 応仁の乱
1508年 幕府の内紛による戦闘
1536年 天文法華の乱
1566年 御霊大火
1585年 寺町荒神口北へ移転
1661年 寛文の大火 翌年、現在地へ移転

釈迦像に関しては、古い童歌に大火後、分解され牛車にて運ばれた情景が歌われている。仏像の構造から、実際の光景を踏まえたものだろう。

度重なる被災の記録からすると、創建時の本尊(平安時代後期?)がそのまま伝わっているとは考えにくい。釈迦像の大きさはいわゆる「丈六」で、内部が空洞であるとしても、緊急時に分解移動させることは困難である。

知恩寺は江戸時代以前の文化財が少なく、火災など被害の大きさを想像させるが、この惨禍は本尊にも及んだと考えるのが自然であろう。

釈迦像は頭部と首から下の胴部が分かれているなど、珍しい構造を示している。ここから古い部材と修復された部材が混在している状況が推測される。

顔立ちには平安後期の仏像を思わせるものがあるが、鼻孔が表されない点は不自然である。ここで一つの夢想が浮上してくるのだ。

釈迦像は創建時、あるいはそれ以降であっても寺町移転以前に造られた古い仏像が、修復を受けながらも部分的に受け継がれているのではないか、という疑問である。仏像は大きく破損しても守り伝えられる事例が多いためだ。私はこの点が長く気にかかっていた。

今回の資料調査では、この疑問に一定の手がかりが示された。膝部が取りはずされたところ、像内に「寛文四年」「修復釈迦如来」「定朝流大佛師/兵部」などの修理銘が確認されたのである。1664(寛文4)年は、現在地へ伽藍が移転してから2年後にあたる。

頭部は修復時に新造された可能性があり、像内は黒漆が塗られているが、これは寛文の修復によるものと想像される。漆の下にはノミ痕の粗い彫刻面が見え、確かなことは不明だが、江戸時代以前の作であることが推測された。

これにより、現在の釈迦像が少なくとも1664年以前に造られたもので、修復を受けて伝来していることが確認されたと言えよう。本来の制作年代に関しては今後の課題となるが、1585年の寺町移転以前に遡る可能性も考慮すべきであろう。

担当仏師は「兵部」。仏師は平安時代以来、特別な業績により高位の僧階を与えられていたが、江戸時代には無断で官職名を称する者が登場する。彼もその一人であろうか。

ところで兵部がその系譜にあると称している定朝は、平安時代後期を代表する仏師で和様彫刻の大成者として名高い。江戸時代に入ると、定朝風の仏像は鎌倉時代の作品と共に理想的な手本とされるようになった。

釈迦像頭部は兵部の作であることが予想されるが、彼が定朝の系譜を引くと主張していることが注目される。その顔立ちが定朝風であることの理由として、似せることを意識して制作した可能性があろう。「定朝流」と自称することには意味があり、釈迦像の頭部は江戸時代における定朝風復古を目指した作品と位置づけることができる。

○阿弥陀如来立像

像内は頭部から底部まで、金泥でダラニが記された紺紙が貼り付けられている。

さて寺町旧境内地図とされるものでは阿弥陀堂が確認できない。現在地に移転後も長く阿弥陀堂は存在しなかった。現在の堂宇は、江戸後期の建立である。従って以前の本像の伝来は不明であり、関連史料も確認されていない。

安土桃山時代に知恩寺を訪れた宣教師ルイス・フロイスの報告には、寺町移転以前の段階で阿弥陀堂と阿弥陀像の存在を示唆する記述があり、何らかの形で阿弥陀像は存在していたらしい。ただし、それが現在複数存在する知恩寺ゆかりの阿弥陀像のどれに該当するかは不明である。

外見から観察される本像の作風は、中央が下がる髪の生え際や高く太い鼻筋、爪の長い指先など、中国・宋時代のスタイルを取り入れている。これは鎌倉・室町時代に流行する現象であるが、江戸時代にも同様の仏像は造像されており、制作年代の決定的な判断基準とはならない。

しかも江戸時代には鎌倉時代の仏像を意識した復古調の作品が数多く造られた。京都ではその傾向が強く、鎌倉か江戸か判断に困る作例も多い。

引き締まった顔立ち、目じりの切れ上がる鋭いまなざしは、鎌倉時代の特色を強く感じさせるが、袈裟の端が波打つように折り返しを見せるなど、異例な着付けが見られる。

・制作年代は鎌倉時代か江戸時代か

これらの点を踏まえ阿弥陀像の制作年代に関しては、鎌倉か江戸かをめぐり研究者間で見解が分かれている。外見を観察するだけでは時代を判断できる決め手に欠けているためだ。

そこで後頭部のラホツの一部が取り外せる構造となっていることから、ファイバースコープによる像内調査が実施された。その結果、納入された巻子の存在が確認され、本年5月、苦心の末取り出しに成功した。確認された主な納入品は次のようなものである。

・巻子 数巻(現状では開巻できず)
・小印仏多数
・紙にくるまれた火葬骨の断片多数
・簪

ラホツの一部が取り外せる構造は数十年前まで伝わっていたらしく、最も新しい納入品は、洋紙にくるまれた人骨断片だった。

遺骨納入の目的は、仏像の胎内を聖なる空間と捉え、ここに納めることで故人の浄土往生を願ったと考えられる。鎌倉時代頃から、お堂や仏像に同様の事例が確認されることが参考となろう。

多くの場合、納入品は仏像の完成以前に納められ、密封されてしまう。本像の場合は、取り外せる部分に接着された形跡が認められなかった。これは完成後も納入品を追加することを意図した構造であると推測できる。

納入品に関しては現在分析中であるため仮定の話となるが、この像は継続して納骨などを行う、特別な目的のもとに造られた可能性が想定されよう。これは美術史の範疇を超える問題であるが、一種の「納骨堂」としての機能が存在したことを推測させるものである。胎内に貼られた紺紙金泥のダラニもこれと関連しよう。

像の大きさに比べて納入品がわずかである状況から察すると、庶民に至るまで分け隔てなく納骨が許されていたのかは疑問だ。納骨が許された人々は限定されていたのかもしれない。また広く一般の人々にも納骨がみとめられていたが、一定量が溜まると取り出して墓地に改葬するといった管理が行われていた可能性もあり得る。いずれにせよ、今後の分析により制作年代・制作経緯・作家などが判明することが期待される。

知恩寺の資料調査からはこの他にも新たな事実が確認されており、いずれ稿を改めて紹介したいと考えている。