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活発化する中国の天台研究 ― 第6回中日仏学会議に参加して

創価大教授 菅野博史氏

2015年12月16日付 中外日報(論)

かんの・ひろし氏=1952年、福島県生まれ。東京大文学部卒、文学博士。東方研究会の専任研究員を経て97年、創価大文学部教授。専攻は、仏教学・中国仏教思想。著書に『法華経入門』(岩波書店)、『中国法華思想の研究』(春秋社)、『「法華玄義」入門』(第三文明社)など多数。

「第6回中日仏学会議」が10月31日・11月1日に、中国浙江省新昌県の大仏寺で開催された。中外日報社と中国社会科学院世界宗教研究所が1985年から2003年まで10回にわたって共催した「日中仏教学術会議」の精神を継承して、中国人民大学に00年に創設された「仏教と宗教学理論研究所」が「中日仏学会議」を開催することとなった。末木文美士東京大名誉教授と私が協力することとなり、04年に第1回が開催されてから、6回を数えるに至った。今回から私が末木氏に代わり日本側の団長を務めることとなったので、蓑輪顕量東京大教授に秘書長をお願いした。

今回の総合テーマは「『法華経』と東アジア仏教」であり、日本と中国からそれぞれ5人の学者が研究発表をした。まず日本側の発表について、発表順にテーマを紹介すると、岡田行弘神戸女子大学瀬戸短期大名誉教授「インドにおける『法華経』の成立と思想」、菅野「吉蔵における『法華経』と『華厳経』との比較研究」、河野訓皇學館大教授「『正法華経』における竺法護の編訳」、蓑輪「『法華経』受容の日本的展開」、大谷栄一佛教大准教授「宮沢賢治と如来寿量品」である。

中国側の発表は、李四龍北京大教授「南北朝期における『法華経』註釈様式の変遷」、兪学明中国政法大教授「『法華経』と天台智者大師の教育実践」、趙東明華東師範大講師「『六根清浄』の意味と天台智顗の解釈」、張凱「光宅寺法雲『法華義記』における仏身思想」、張文良「中国華厳宗における『法華経』―華厳宗の判教説を中心として―」で、このうち李、兪、趙の3氏が天台研究の専門家であった。中国では禅の研究者が多いが、近年、天台の研究者も増えており、今回、発表者ばかりでなく、司会者、コメンテーターにも専門家が多かった。中国側の主催者の張風雷所長も天台の専門家である。

この会議は、これまで人民大で開催されてきたが、このたび大仏寺が天台智者大師記念堂を建立し、その開幕式を挙行する関係上、大仏寺での開催を強く要望した。人民大学はかねて大仏寺と関係があり、大仏寺の要請を受け入れた結果であった。

私は3年前に杭州の大学に講演の招待を受けたとき、大仏寺を訪れたことがあった。この地には、早くも4世紀の東晋時代に寺院が建立され、5世紀から30年をかけて岩壁に約16メートル(台座を含む)の弥勒石像が刻まれ、今日に至る。はじめは立像であったが、今は下の部分に手が加えられて座像となっている。しかし、私には弥勒石像よりも、天台智者大師(智顗)が江都揚州にいる晋王楊広(後の煬帝)に維摩経疏を献上する旅の途中、天台山の西門といわれる石城寺(の弥勒石像の前)で円寂したことの方に、よほど心ひかれた。

会議終了後には、およそ20年ぶりに天台山国清寺を参観する機会を得た。大仏寺の境内の建設ラッシュ(これは近年の中国の寺院ではよく見られる光景である)に比べて、国清寺は20年前と変わらぬ落ち着いたたたずまいを示していた。

今回の兪学明の発表は、智顗における自行と化他の緊張を主題とし、重要な資料として、「遺書、晋王に与う」(『国清百録』巻第3)の六恨(六種の悔恨)について触れている。この六恨は、次に述べる智顗の死と大いに関係するものである。

私は、だいぶ以前に智顗の死について、中国の学者の論文(具体的な論文名は記憶にないが、後に紹介する学者の論文かもしれない)を読んで驚いたことがあった。そこには、智顗の死は自然の死ではなく、むしろ楊広に抵抗する覚悟の自死であったと記されていたからである。

日本では、このような政治と仏教の厳しい緊張対立の視点から智顗の死を解釈する研究はなかったと思われたので、興味を引かれた。ただ、その時はそれ以上考えることはなかったが、昨年、紹興市の会稽山で「支遁と魏晉南北朝仏教」と題する国際学術研討会が開かれ、徐文明(北京師範大教授)が「智者大師真身舎利の謎」(『論文集』269―275ページ)と題して、智顗の死後の遺体と舎利をめぐって、天台教団と楊広の深層の闘争について発表した。私はこの問題に再び出合うこととなり、しかも今回の会議は智顗の円寂の地である大仏寺での会議であったために、会議の前後この問題について考えざるを得なかった。

まず、これについて述べるために、智顗の晩年を簡潔に紹介しておきたい。

智顗は、38歳(575年)のとき、天台山に隠棲するが、智顗の弟子の永陽王の度重なる要請と陳の後主叔宝の勅命によって、48歳(585年)のとき再び建康(今の南京)に出た。智顗は陳朝で華々しく活躍するが、それもつかの間、20歳の楊広に率いられた隋軍に、陳朝は589年に滅ぼされてしまう。智顗は廬山に逃れるが、占領軍による現地の寺院の荒廃を救ってほしいという手紙を楊広に送った。

その後、智顗は故郷の荊州に行き、大勢の道俗に温かく迎えられるが、亡国の民の多数の集会を望まない隋朝によって、解散を命令され、智顗の活動も頓挫してしまう。591年には、揚州の禅衆寺において、智顗は楊広に菩薩戒を授け、楊広は「総持菩薩」と名づけられ、智顗は「智者」の号を授けられた。

さらに、智顗は廬山、南岳、潭州、荊州を経巡ったが、595年に楊広の願いによって揚州に戻り、楊広の依頼による維摩経疏の第1回の献上を果たした。しかし、かねて天台山を終焉の地と定めていた智顗は、楊広の許しを得て、同年9月頃、天台山に10年ぶりに戻った。天台山に戻ってからも病をおして維摩経疏の撰述(実際には口述筆記と思われる)に励み、第2回の献上を果たした。597年10月17日に、楊広の使者、高孝信が智顗を迎えにやって来たので、やむなく天台山を下り、第3回の献上の旅に出たが、病気のために、石城寺から進むことができず、11月24日に円寂したのであった。

潘桂明『智顗評伝』(1996年)45ページによれば、談壮飛が智顗の「憤死」、さらには「服毒自殺」の可能性を唱え、張哲永が「絶食死」を唱えた。これらの仮説の背景には、中国の学者が、『国清百録』に見られる智顗と楊広の表面的な蜜月的関係の裏に、政治権力者楊広の智顗への圧力や政治利用の意図を看取していることがある。楊広が維摩経疏の撰述を求めたことに対しても、智顗は最初断っていたが、ついには引き受けざるを得なかった。また、高孝信が天台山に迎えに来たときも、智顗に準備の時間を与えず、次の日には天台山を出発している。

「遺書」によれば、その年の夏、「一百余日」、病と闘いながら維摩経疏の完成に努力していた智顗を強いて江都に招くことは、智顗の死を早めるだけであったであろう。石城寺から動くことのできない智顗に対して、楊広は医者まで派遣しているが、「少し健康が回復したら、ゆっくり来てください。遠からずお会いすることをお待ちしています」と、さらに会見を強要している。

潘桂明は、「遺書」の前半の六恨の深層の意味を解説し、隋朝から受けた不当な扱いによって、智顗の仏法流布の願いが挫折したことの申し立て、訴えを読み取っている。一方、「遺書」の後半は、智顗が楊広に、天台山の国清寺の建立や、智顗にゆかりのある寺院の修理などを依頼した内容となっている。楊広は、智顗の死後、それらの要望を一つ一つ実現したのである。

智顗は、仏法者としての矜恃を持ちながら、檀越としての楊広に天台宗の将来を頼まざるを得なかったことも事実である。智顗と楊広の関係をどのように見るか、さらに興味をそそられるが、詳しくは改めて考察したい。