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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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人文学の死、震災と学問 ― 人文学とは何か本質的議論を

国際日本文化研究センター教授 磯前順一氏

2015年10月23日付 中外日報(論)

いそまえ・じゅんいち氏=1961年生まれ。専攻は宗教・歴史研究。著書に『死者のざわめき 被災地信仰論』など。11月末に、東日本大震災における信仰の意味を宗教学者・宗教者・報道関係者で討論する会議「鎮魂・翻訳・記憶―声にならない他者の声を聴く」を主催予定。

この夏、お盆過ぎに東北地方を訪れた。仙台で、『黒い海の記憶』の著者である山形孝夫氏(宮城学院女子大学名誉教授)に会った。「死者を中心に据えた学問が今求められている」と、彼は何度も語った。「例えば能楽。死者が主役になって物語が展開する。その声を聞き取る役が僧侶なんです」。一方、現代の学問は生者が自分たちだけのために学び語っているのではないか。そこに理性のみに根ざした近代啓蒙主義の限界があるように思えるのだ。その意味で、東日本大震災は学問の転換点をなす出来事でもあった。理性というものが感情や無意識という土台に支えられた、不安定で局所的なものであるのかを知らしめた出来事であった。理性だけではない。私たちの生自体が頼り気のない脆弱なことを感じざるを得なくなったのである。

文科省が大学における人文学部の削減を示唆してから数カ月がたった。ほぼ同時にはトップ15大学にグローバル学部の設置をおこなう国際戦略も発表された。こうした動きの中で既存の人文学系の学部は国際競争に耐えられないという評価が下されたのである。震災以降、日本社会はナショナリズムの傾向が強まる一方だが、一見相容れないように見える国際化の動きこそがそうした排外主義の気分を促している。国際化の需要が高まるほど、そこから零れ落ちる人々は故郷を失われたものとして憧憬するためである。

境界線崩壊の恐怖

周知のように、国際化の推進はグローバル資本主義と不即不離の関係にある。資本主義がグローバル化していく中で、国境を超えた競争を強いられる人々は不安にさらされる。社会福祉を切り捨てた新自由主義の政府や、解体されていく地域共同体ではもはやこうした個人の抱える不安に対処することができない。若い世代に圧倒的な人気を誇る漫画『進撃の巨人』やライト・ノベル『涼宮ハルヒ』シリーズは、そうした不安を端的に体現した作品である。セカイ系と呼ばれるこれらの作品は自分が見えない世界と戦っている、いや、戦うというよりも、見えない世界が自己の内部に侵入してくる恐怖が的確に描き出されている。

『進撃の巨人』が示すように、この世界は人間を食い尽くす謎の巨人たちで満ちており、彼らの侵入を防ぐ城壁もすでに破壊されている。そうした悲痛な恐怖感、それが今日の日本社会を生きる多くの人々の、偽らざる心象風景なのではないか。自己と世界の境界線の崩壊。正体不明な他者の侵略。自分が自分であることの実感が喪失される。拠りどころを失った人々は、天皇制やパワー・スポットなど、「大文字の他者」(ジャック・ラカン)へと自ら進んで同化されていく。明確なアイデンティティーの確立していない者にとっては、たとえそれが安直な既成の権威であり、他者を侵害するものであっても、自分を包摂してくれる存在であれば、喜んで身を委ねることになる。自分を取り巻く世界そのものが不分明である以上、少しでも自分を包み込んでくれる他者との一体化を望むのは当然の心情であろう。

そして、共同体の内部では調和が破られることをひたすら恐れ、たとえ眼前で不正がおこなわれても何事も起きていないように黙殺する。内部が上手くいきさえすれば、自分の属していない他の共同体で何が起ころうが関知しない。会議の場では自由な発言を促しておきながら、実際には異論を唱える発言が閉会後に注意されることも稀ではない。その結果、本会議では表面的には自発的な「全員合意」がなされたという体裁が保たれる。しかも事態を厄介にさせるのは、こうした自由な発言への制約が誰の意向によるものなのか、責任の主体が曖昧なことである。そのため意見を公表できなくなった者たちには黙認を続けるか、内部告発という形でしか自分の声を発する可能性は残されていない。学問の世界も教授会の討論、博士論文の審査など、理研のSTAP細胞騒動がその一端を示したごとく、日本の社会一般とさほど変わることはない。社会や共同体にはその成立当初から不正が隠蔽されていると考えるべきだろう。

不正の感覚が欠如

さらに問題が根深いのは、こうした沈黙を意図する当事者、あるいはそれに従う黙認者たちには不正の感覚が著しく欠如していることである。たしかに、無意識裡には自分たちが不正に関与していることに疚しさは感じている。だからこそ、意識の上では何も起きていなかったかのように、自分自身の不安さえ否認してしまう。多くの場合、自分は無力だから生き延びるためには仕方ないと諦念する。そこに陳腐で感傷的な「凡庸なる悪」(ハンナ・アレント)が生まれる契機が潜んでいる。

理研の騒動から想像がつくように、どこまでが自分の執筆で、どこからが他人の筆が入ったものなのかが判別のつかない博士論文も稀ではないだろう。他人から見て書き手の弁別が困難なだけでなく、すでに筆者自身がどこまでが自分の執筆したものなのか、その境界線が不分明なのだ。もはや著者が明確な個人の輪郭を保ち得ない状態にまで主体は崩壊し始めている。文科省の人文学部の削減に対しても、教員から人文学部を守れという声は上がるものの、人文学とは何なのかという本質的な議論はほとんどおこなわれていないのが現状であろう。その結果、研究者であれば現実を対象化する批評理論には向かわず、細分化された既成分野で実証研究に閉じこもってしまう。

ここには震災以降に顕わになってきた社会状況が端的に現れている。福島第一原発から漏れ出した放射能や汚染水がどれだけの悪影響を与えているのか、それは何十年もの時間が経過していく中でしか知ることのできない不可知の出来事なのだ。だからこそ、この覆い隠された記憶の底に沈んだ原光景に光を当てて言葉に変えていく作業が必要になる。津波が襲ったあの時に目の当たりにした光景、聞こえてきた叫び声は、今、誰が聞き届けているのだろうか。受け止める者がいなければ、その光景や声は断片化されて記憶の底に深く沈み込む。しかし、生者の社会にこびり付いて離れない罪責感は決して拭い去れるものではない。私たちが生き延びた際に、代わりに誰かを見殺しにしてきたのではないか。そうした内なる不安は亡霊のように回帰し、生者に付きまとって離れることはないだろう。

他人と共に生きる

被災地の人たちが今も苦しみあえいでいること。それは、国内の原発施設や米軍基地、さらにはアジアの戦争など、周辺地域の犠牲の上に社会の経済的繁栄があったという、戦後の日本社会の構造そのものを反映したものに他ならない。だとすれば、高度成長という資本主義の自己増殖の運動体からどのように離脱することができるのか。震災をめぐる議論は被災者が可哀想だという感情論にとどまることなく、確固たる思想へと練り上げられていく過程の最中にある。被災地に赴いた宗教学者の中には人々の痛みを目の当たりにして学問を投げ出し、一般のボランティアや擬似宗教者に転じてしまう者もいる。しかし、自分の無能さを前に学者として踏みとどまることなしに、学者にどんな価値があるというのか。

過日、『死者の花嫁』の著者でもある佐藤弘夫氏(東北大学教授)に案内されて、山形県の湯殿山麓の即身仏のもとを訪れた。「江戸時代、飢餓に苦しむ多くの人たちのために自ら捨身行を課した生き神でもあった」という。それは人間の理性を過信することなく、有限な人間が無限な存在へと開いていくときに生まれる、欠損を抱えた異種混交的な主体なのだ。経済成長という大文字の他者の欲望をどのように切断し、その痛みを媒介にして新たな日本社会という主体を再構築していくのか。その苦痛を我が身に引き受けるときに、人間は他人のために生きることができる。凡俗な私には即身仏のような捨身行は到底できないものの、他人と共に生きる身の施し方を示し教わる思いであった。

見えない不安に打ちひしがれたままではいけない。何かを引き受けることで、この茫漠とした世界不安に対して形を与えていく必要がある。人間は世界の主人ではないが、奴隷でもない。世界の転移状態から目覚めるのだ。ほら、耳を澄ませば、死者たちのざわめきが聞こえてくる……。