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仏教の立場と安保法制 ― 釈尊の教えに従い反対の声を

花園大教授 中尾良信氏

2015年10月14日付 中外日報(論)

なかお・りょうしん氏=1952年、兵庫県生まれ。駒沢大大学院仏教学専攻博士後期課程満期退学。曹洞宗宗学研究所を経て、89年から花園大文学部仏教学科に赴任。現在、同大・人権教育研究センター所長。曹洞宗清久寺住職。編著書に『日本禅宗の伝説と歴史』『日本の名僧 孤高の禅師・道元』(共に吉川弘文館)など。

すでに本紙紙面(8月26日付9面)でも紹介されたように、筆者が所属する花園大学の有志は、7月15日の衆議院特別委員会と翌16日の本会議で、集団的自衛権行使の容認を中心とする、安全保障関連法案が強行採決されたことに断固反対する共同声明を、8月11日付で発表しました。その後、審議は参議院に移りましたが、連日の報道でも明らかだったように、建設的な議論が行われることはなく、形式的で無意味な公聴会が開かれ、あたかも公聴会が単なる儀礼であることを自ら示すかのように、本来行われるべき総括質疑も行われないまま特別委員会になだれ込み、採決が強行されました。委員会の場で繰り広げられたあさましい混乱はテレビ中継され、この国の最高議決機関である国会の中で、議員として選ばれた人たちが示した行動を、国民の眼に焼き付けたことでしょう。参議院本会議でも、野党は反対の長広舌によって引き延ばしを図るしかなく、19日未明、与党自民党と公明党および与党に追従した一部野党の賛成によって可決成立してしまいました。

国会の外はもちろん、全国各地の集会で市民が反対の声を上げているばかりではなく、マスコミによる世論調査でも、60%以上の人が法案に反対し、80%以上が審議が不十分だとする結果が出ていることは、すでに報道されているとおりです。デモの群衆が国会を取り巻く風景は、1960年いわゆる「60年安保」の光景を彷彿とさせますが、ときの総理大臣は安倍晋三首相の祖父岸信介氏でした。当時のデモは全学連だとか労働組合だとか、ある意味で政治主張を共にする団体が動員したもので、いわゆる運動家たちがほとんどでした。しかし今回は、学生団体シールズのような有志のグループも含めて、基本的には個人の集合であり、しかも高校生を含む若者から赤ん坊を抱いた母親、50代の男性やかなり高齢の方まで、まさしく老若男女が自発的にデモを形成したという意味では、国民の一人ひとりが主体的に反対の声を上げていたといえるでしょう。

憲法無視の手続き

安保法制に関する一連の議論はまったく噛み合わない、論点がすれ違ったものでした。安倍首相や閣僚・与党議員は、日本を取り囲む安全保障環境の変化を言い立てますが、現実に想定されるケースや戦争の可能性の話になると、首相や閣僚の答弁は一貫性も無く説得力を欠いたもので、とても国民に対する説明責任を果たしたとはいえません。それに対して憲法学者などが反対する論点は、前提となる手続きの問題、言い換えれば閣議決定による憲法解釈の変更ということがそもそも間違いなのであり、これまで違憲としてきた武力行使を容認するのであれば、戦争の放棄を謳った第9条を含む、現行憲法を改定してからでなければならないと主張しました。

論理的には、法律は国の最高法規である憲法に基づいて定められ、政治は憲法の枠内で行われなければなりません。もしも政治が憲法の枠を超えようとするのであれば、あくまで「その時点の憲法の規定」に遵って改定する、という手続きを経てからでなければならないはずです。となれば、国民の理解は十分に得られていないと認めつつ強行採決に突っ走ることは、政治手法として許されるべきではありません。

つまるところ安倍政権は、安全保障環境の変化に対応するという目的のために、閣議決定という憲法の規定に無い手続きによって、その枠を超えようとしているわけで、集団的自衛権の行使という目的が正しいのだから、手続きについては最高法規も無視するということになります。しかも重要なことは、このきわめて重大な決定が日本の国会で審議される以前に、米国との約束として話し合われたということであり、つまりは国会での審議は完全に無視されたわけです。

詭弁で学徒戦場に

さて、仏教を含む宗教に関わる立場からは、今回の安保法制の問題をどのようにとらえるべきでしょうか。政教分離の原則からいえば、少なくとも仏教者が政治的発言をすることは、好ましくないとする考え方もあります。もちろんそれは、宗教者の権力行使を防ぎ、信教の自由を保障する上で意味がありますが、宗教に対する信仰を自らの生き方と考えるならば、当然のこととして社会に対する姿勢にも、重要な意味を持たなければならないと思います。ならば、自国が侵略される場合だけではなく、他国で武力を行使する可能性があり、生命と環境が破壊される事態、すなわち戦争が想定されるような方向に国家が進もうとしている場合には、やはり宗教の立場から反対の声を上げるべきではないでしょうか。

多くの識者が、現在の政治状況をまるで戦争前夜のようだと指摘していますが、筆者自身も僧侶の一人として、同時に仏教系大学の教員として、当時影響力があった仏教者の多くが、どのような姿勢で社会に臨んだかを思い出さずにはいられません。宗門の僧侶や檀信徒に対して、あたかも戦場において敵の兵士を殺すことが、仏教の教えにかなっているかのような詭弁を弄し、宗門系大学から学徒出陣する学生を、同じ詭弁で鼓舞して戦場に送り出しました。確かに当時は、国家に異を唱えることが困難だったでしょう。しかし戦後、各教団は深い懺悔をこめて戦時体制への翼賛を反省し、不戦非戦を誓ったはずです。その懺悔を忘れていないのであれば、それを踏まえてこそ、国民の平和を危険にさらす道に進もうとする政治に対して、仏教の立場から断固として反対を表明するべきだと考えます。しかも、発言が憚られた戦時中とは違い、少なくとも反対意見を表明する権利は確保されており、事実多くの国民がその権利を行使しています。

民主主義の始まり

前にも触れたように、今回の安保法制反対の運動は、基本的には政治信条を共にする団体が主導したものではなく、ほとんどが個人の意見や納得できない思いを表明したものです。マスコミ報道などによれば、僧侶もおおむね個人として、あるいは有志として反対を表明し、デモに参加していたようです。では、あくまで教団としての立場ではなく、反対表明は個人としてするべきなのでしょうか。

今日の仏教教団は、僧侶だけのものではなく檀信徒もその構成員ですから、教団が全体の意見を拘束統制することは、憲法が保障する思想信条の自由を侵害することになります。しかし、ある意味で国民が憲法を遵守するのと同じ程度に、仏教徒は釈尊の教えに従って生きるよう努力しなければなりません。臨済宗妙心寺派と曹洞宗では、ともに宗務総長が戦後70年に当たっての談話を発表し、戦争協力への反省と非戦の誓いを表明し、生命と平和の尊重を謳っていますが、審議のまっただ中にあった安保法制に対しては、残念ながら言及されてはいませんでした。かなり早い時期から、集団的自衛権行使に反対する声明を発表した教団もあります。かつて国家に迎合して戦争に翼賛してしまったからこそ、教団としても法案ないし強行採決に反対する姿勢を明確に示すべきではないでしょうか。

ともあれ安全保障法案は10本ひと括りで審議され、何がどうなっているのかわからないまま、衆参両院ともに強行採決されました。安倍首相は、目的は達成したとばかりに次の経済政策を打ち出していますが、国会周辺や各地の集会で反対を表明した市民たちからは、「今が本当の民主主義の始まりだ」という叫びが聞こえていました。仏教者を含む日本国民の一人ひとりが、私たちの国、私たちの社会がどういう道を進むべきかを考えなければなりません。その意味で安保法制の議論もこれで終わったわけではなく、今後の選挙を含めた政治に重大な関心をもって、継続していくべきではないかと考えます。