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日本近世美術と日蓮宗 ― 信徒から多くの芸術家輩出

京都美術工芸大学長 河野元昭氏

2015年10月2日付 中外日報(論)

こうの・もとあき氏=1943年、東京都生まれ。専門は近世日本美術史。東京大名誉教授。秋田県立近代美術館長、美術専門誌『国華』主幹等を歴任。『鈴木其一―琳派を超えた異才』『琳派―響きあう美』など著書多数。秋田県立近代美術館ホームページのブログ「おしゃべり名誉館長」で美術の最新情報を発信中。

篤いキリスト教信仰者であった内村鑑三さえ、独創性と独立心を愛して止まなかった日蓮――その日蓮が編み出した法華宗、今の呼び方で言えば日蓮宗は、偶像や聖像に対して冷淡であった。日蓮は礼拝すべき最も重要な対象として、「南無妙法蓮華経」という七文字を中心とする文字曼荼羅本尊と、それのみの題目本尊を創出したのである。

日蓮は辛苦惨憺の末にみずから確立した法華経世界を表現し、礼拝の対象とするために、画像ではなく、文字だけの本尊を選択したのである。それは眼に心地よいポリクロームではなく、凛としたモノクロームの本尊であった。しかも本尊として一般的な3次元の彫像ではなく、2次元の掛幅であった。日蓮が独自に感得した法華経のシャングリラは、文字曼荼羅や題目本尊によって最も的確に視覚化されたのである。

もちろん日蓮も、彫像を否定したわけではなかった。それどころか、生涯にわたって釈迦立像を持念仏としていた。『大聖人御葬送日記』により確認されるとのことである。それを認めた上でなお、彫像や画像を絶対視しない思想が、日蓮には具わっていたように思われてならない。

イコノクラスムは、キリスト・マリア・聖人図像の礼拝を禁じ、これを破壊する運動で、8世紀以降ビザンティン帝国で起こった。したがって偶像破壊運動と訳されることが一般的だが、もしこれを広く偶像否定主義と考えるならば、日蓮にはイコノクラスム的志向があったというべきであろう。実証は難しく、日蓮宗寺院を訪ねたときの直感に過ぎないのだが、奈良の華厳宗や法相宗、あるいは京都の浄土宗や真言宗の寺院と比べ、安置される仏像の美術的価値において、やや及ばないところがあるというのが、偽らざる感想だからである。

この問題を考えるとき、最も直接的関係を有する「遺文」は、『観心本尊抄』であろう。しかしいくらこれを読んでみても、日蓮は本門の本尊、久遠実成の仏を語って、つまり形而上的な本尊を説いて、それを造形化した仏像についてはまったく触れていない。曼荼羅の構成については匂わすところがあるけれども、直接的ではない。もちろん、多くの経典が同様であるものの、日蓮の場合には特に指摘しておきたいと思う。

簡潔なる文字曼荼羅は、華やかな絵曼荼羅や宝塔絵曼荼羅へと展開していく。布教という使命を負った弟子たちが考え出した「方便」であり、文字通りの「譬喩」だったのだろう。文字曼荼羅や題目本尊を最高の本尊と見なして、彫像であれ画像であれ、イメージをその下位に置こうとする観念が明らかに働いている。そしてそれは、日蓮に端を発する思想であったにちがいない。

ところがここに不思議な現象がある。中世から近世にかけて、日本美術史上、重要な役割を果たした流派、すぐれた作品を遺した芸術家に、日蓮宗の信徒が多かったという事実である。まず挙げるべきは狩野派である。その始祖正信は日蓮宗の信者であった。墓は京都・妙覚寺にあり、『扶桑名画伝』には、その実成院過去帳が引かれている。本法寺開山日親、かの鍋冠り日親の像を描いたという『等伯画説』の一条も注目されよう。その後、狩野派は元信、松栄、永徳、光信と受け継がれ、時の支配者に寄り添うようにして発展したが、桑名で客死した光信を除いて、彼らの墓はすべて妙覚寺にある。徳川幕府の成立とともに、狩野派は探幽を中心として江戸へ本拠を移したため、これを江戸狩野と呼んでいるが、もちろん彼らも法華信徒であって、その墓は東京池上・本門寺にある。

狩野永徳と覇を競ったのが、長谷川派を興した長谷川等伯である。等伯は能登・七尾の畠山家家臣・奥村家に生を享けたが、染物業を営む長谷川家に養われたらしい。この長谷川家が日蓮宗であったらしく、等伯もその家庭環境のなかで、熱心な法華信徒となったと推定される。能登において日蓮宗関係の仕事に精を出した等伯は、30歳のころ京都に出ると、本法寺を本拠に大活躍を始める。本法寺関係の作品に限れば、「日尭上人像」や「大涅槃図」が名高く、先の『等伯画説』は日通上人による等伯の言説の記録、中国画論のコピーから離脱したわが国最初の画論として、何ものにも換えがたき価値を誇っている。

琳派の祖とされる本阿弥光悦になると、日蓮宗との関係はさらに密接となる。今年は、琳派400年記念祭として様々な琳派顕彰行事やプロジェクトが行われて、社会現象の観を呈している。光悦が徳川家康から洛北・鷹ケ峰の地を得て、ここに光悦村を拓いたのが1615(元和元)年、それから数えてちょうど400年の節目に当たるというわけである。この光悦村については、かつて芸術村説が強かったが、現在では、四つの法華寺院が営まれていたこともあり、法華信徒による宗教村であるとする見解が定説となっている。私見によれば、これまた実証は難しいものの、法華経にも日蓮にもつながる「浄仏国土」の思想が光悦を突き動かしたのであり、宗教と美術が融合する理想郷が光悦村であった。ユートピア実現に向けて上行菩薩となった日蓮に、光悦もみずからを重ね合わそうとしたのであろうか。

そもそも本阿弥家の日蓮宗帰依は、初祖妙本にさかのぼるとされるが、室町時代中期、本阿弥家中興の6代本光と、本法寺日親の獄中における邂逅を契機として、篤く深いものとなった。かくして本阿弥家は本法寺を外護し、また菩提寺とするようになり、現在も光悦の手になる法華経と、それを収める「花唐草螺鈿経箱」が伝えられている。そのほか光悦は、「立正安国論」などの「遺文」を書写し、本法寺をはじめとする木額を書すなど、日蓮宗との関係はきわめて強いものがあった。光悦と不即不離の間柄に結ばれていた俵屋宗達も法華信徒であったにちがいなく、宗達に私淑して琳派に新しい美意識を導きいれた尾形光琳は、京都における最初の日蓮宗道場といわれる妙顕寺に眠っている。

このようにみてくると、日蓮宗を抜きにして近世絵画を語ることはまったく不可能だということになる。それでは、文字曼荼羅や題目本尊に最高の価値を置いていた日蓮、そのイコノクラスムともいうべき思想を受け継いで、彫像や画像に抑制的であった日蓮宗を信仰していた彼らが、何故にあのように傑出した芸術を創り出すことが可能だったのだろうか。どうして、日本絵画史上に燦然たる光輝を放ち続ける絵画を描き出すことができたのだろうか。

まず考えられるのは、イコノクラスム的価値観があったればこそ、逆に造形を行わずにはいられなかったという理由である。アルタミラの壁画や我が装飾古墳を持ち出すまでもなく、人間には絵画造形意欲というDNAがそなわっていて、むしろ抑えつけられれば抑えつけられるほど、ほとばしり出るのである。そうだとすると、彼らが現出させた山水も花鳥も、実は久遠実成の釈迦であったことになる。少なくともそこに、宗教的心象が宿っていたことは否定できないであろう。

あるいは、日蓮の自己自信とそこから生まれた現実対決的姿勢が、芸術家に必須の自由と自在を担保したのかもしれない。例えば、光悦に関する最も重要な資料である『本阿弥行状記』の一節が参考になる。「家父光悦は一生涯へつらひ候事至って嫌ひの人にて」に、すぐ「殊更日蓮宗にて信心あつく候故」と続けられているのだ。両句が命題と判断であることは、改めて指摘するまでもないのである。

さらに、日蓮の革命的ともいうべき革新性が、伝統的様式や表現に唯々諾々としたがう退嬰的精神から、彼らを解放した可能性も考えられてよいであろう。江戸狩野の末輩が因習的な粉本主義に絡め捕られて、創造性を枯渇させていったとしても、そのパイオニアである探幽は、みずから新様式を開拓して、狩野派の画風を一変させた革命家だったのだ。

美術史において、すべてを宗教という観点から考察することはむろん間違っている。しかし、それをまったく無視して、芸術家の天賦の才や社会環境に因縁を求めることも正しい方法とはいえないであろう。いずれにせよ、宗教は天賦の才と社会環境を創り出す最も重要な要素なのである。